中国には「蓋棺論定」という言葉がある。「棺を覆(おお)いて事定まる」。つまり、人の評価は死んだ後になって定まるとの教えだ。いなくなって存在の重さを再認識し、なお惜しまれる人徳を偲ぶことは、だれにも経験があるだろう。また、その逆があるからこそ言葉の戒めがある。送る側からすれば、その人物に対する思いがはっきり表れるのも亡くなった後である。
1月10日、広東省深圳市の初代書記を務めた張勲甫氏(享年96歳)の告別式が同市内で営まれた。斎場に習近平総書記の母親、斉心氏が花輪を送り、次男の習遠平氏は式に参列したうえ、12日の地元紙『深圳特区報』に紙面の半分を埋める追悼文を寄せたことが目を引いた。習ファミリーの並々ならぬ思いが伝わってきた。
香港に隣接する深圳は、1970年代末からの改革・開放政策で「経済特区」に指定され、十数万人の農村から人口約1100万人、1人当たりGDPが2万5000ドルに達する先進都市に成長した。スタート時、習近平氏の父親、習仲勲が広東省党委書記の重責を担い、その下で現場を率いたのが8歳年下の張勲甫氏だった。だが単なる上司部下の関係で、あれほど手厚い追悼はあり得ない。政治的立場を超えた、家族としての個人的な恩義が感じられる。
困難なときに救ってくれた人、支えてくれた人は忘れない。張氏は習ファミリーにとってそういう存在だった、と私はみている。
習遠平氏の追悼文は「過ぎ去った歳月、消えることのない後姿」の主見出しで、「張勲甫おじさんに捧げる」とサブタイトルが振られている。「何度もお会いしたが、最も官僚臭くない人だった。自慢話もせず、謙虚で慎み深く、入院するときも高級幹部用の病棟ではなく、一般の患者と相部屋で過ごそうとした」と人柄をたたえている。家族付き合いの様子が読み取れる。父親の偉業をたたえる内容も多いが、主眼は追悼にあるとみるべきだ。
習仲勲は文化大革命を含む16年間、毛沢東の主導する政治闘争に巻き込まれて迫害された後、胡耀邦元総書記の働きかけで名誉回復し、広東省に送り込まれた。習仲勲は当時、山東省なまり丸出しで話す張勲甫・同省計画委員会副主任の実直さを見込んで、重用するようになった。山東人はもともと率直な性格で知られるが、彼はその典型だった。習仲勲は陝西省出身で、同じく他省から来たよそ者同士、気心も通じ合ったことだろう。
習仲勲は1978年4月から80年9月までの2年5か月、広東省党委第二書記、第一書記、省長を歴任し、改革開放の基礎を築いた。だが1987年1月、胡耀邦が鄧小平らの長老から学生による民主化デモを放任した責任を問われ失脚した際、習仲勲は恩人の胡耀邦を擁護し、自らも連座する。引退後は北京を離れ、思い出深い深圳を終(つい)のすみかと定めた。斉心ら家族は今でも深圳の迎賓館で暮らしている。敷地内には習仲勲が生前、家族と植えた南方自生の常緑高木、榕樹(ガジュマル)が育っている。習ファミリーにとって、血なまぐさい政治の舞台から隔たり、気候も温暖な南方は、心の傷をいやすのにふさわしい場所だった。
習仲勲の晩年は不遇で、訪れる客人もまれだったが、近くに住む張勲甫氏はきっと変わらぬ交誼を守ったに違いない。困難なときの恩は忘れない。それは習家の家訓でもある。
習ファミリーにとっての恩人には周恩来元首相もいる。周恩来は、習仲勲が迫害を受けている間、家族との面会を手配するなど終始、陰で支援の手を差し伸べた。習仲勲は、周恩来が1976年1月に亡くなると、労働を強いられていた洛陽の耐火材料工場で号泣した。名誉回復後の79年4月、『人民日報』の1ページを使い、周恩来の追悼文「永遠に忘れがたい懐旧の情」を書いている。
習近平氏が総書記就任後の2012年12月、最初の地方視察地として訪問したのが深圳だった。改革開放の継続をアピールすると同時に、埋もれていた父親の業績に光を当てるきっかけを作った。翌年13年10月の習仲勲生誕100周年年記念では、「改革開放が最初の一歩を踏み出す上で不滅の功績を残した」との評価が与えられた。張勲甫氏への追悼もその延長線上にあるのは間違いない。
人の評価は亡くなったときばかりでなく、その後の政治・社会状況によっても左右される。周恩来も鄧小平も散骨を選び、「棺」を残さなかった。あえて「蓋棺論定」に抗したのは、死後も翻弄されることへの拒絶が感じられる。この国において、政治の世界はかくもすさまじい。
編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年1月15日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。