【GEPR】被災者の地獄への道は村上春樹の善意で舗装されている

池田 信夫

2015年4月11日の「池田信夫blog」の記事の再掲です。

キャプチャかつて私は村上春樹の小説の熱心なファンだったが、彼の社会的な発言は単なる平和ボケの団塊オヤジだ。いま話題になっている「原発NO!に疑問を持っています」という話でも、「交通事故で毎年5000人近くが亡くなっているのに、原発だけを取り上げてNO!というのはどうかと思う」という読者の質問に、村上はこう答える。

福島の原発(核発電所)の事故によって、故郷の地を立ち退かなくてはならなかった人々の数はおおよそ15万人です。桁が違います。[…]もしあなたのご家族が突然の政府の通達で「明日から家を捨ててよそに移ってください」と言われたらどうしますか? そのことを少し考えてみてください。原発(核発電所)を認めるか認めないかというのは、国家の基幹と人間性の尊厳に関わる包括的な問題なのです。

まず彼はここで毎年5000人の死者と15万人の避難者を混同している。福島事故の放射線による死者は、5000人どころか1人も出ていない。さらに15万人は「明日から家を捨ててよそに移ってください」と命令されて、そこにいるわけではない。政府は年間20mSv以下の地域は帰宅するよう勧告しているが、帰るに帰れないのだ。

なぜだろうか。それは村上のような人々が「被災地を除染して放射能を1mSvにしないと帰宅させてはいけない」と言い張っているからだ。そんなことを実現するには10兆円以上の予算が必要であり、それを条件にする限り、彼らは永遠に帰宅できない。

この原因は民主党政権が、福島を法律の適用できない例外状態にしてしまったからで、安倍政権も手が出せない。法治国家で例外状態をつくると、官僚の裁量をチェックするしくみがないので、歯止めがきかなくなるのだ。そして官僚は「世論」に迎合して問題を先送りする。その世論をつくっているのが、村上のような(主観的には)善意の人々だ。

「原発(核発電所)を認めるか認めないかというのは、国家の基幹と人間性の尊厳に関わる包括的な問題」だというなら、累計で50万人以上の人命を奪った自動車や、毎年13万人の死者をもたらしているタバコを認めるか認めないかも、国家の基幹と人間性の尊厳にかかわる包括的な問題だ。原発だけが特権的な大問題だというのは、マスコミの作り出した錯覚である。

このように日本では、例外状態で決断する主権者はヒトラーのような独裁者ではなく、村上のような「世論」だ。これは独裁より厄介である。ヒトラーを追放すれば独裁はなくなるが、村上のような善意の人々は無数にいて、しかも自分が主権者だと気づいていないからだ。