韓国の朝鮮日報に、「新たな袁世凱を自ら生み出す韓国政府の低姿勢外交」というコラムが載っていた。リンクも張っておくが、要約すると以下のようなところだ。
中国外交部の陳海・アジア局副局長が韓国外交部の反対を押し切って先月末に韓国を訪れて「高高度防衛ミサイル(THAAD)」の韓国配備を阻止するために政財界などの関係者を訪れて、脅迫じみた説得をしていたらしい。
陳氏は2012年から14年までソウルの中国大使館に勤務し、ソウルの外交関係者の間で「陳世凱」と呼ばれていたらしい。立場は公使参事官にすぎなかったが、もっと高い地位にあるかのように振る舞い、副大使あるいは代理大使のように認識されたため、韓国外交部は、公使参事官という正式な立場で活動するよう求めた。
ところが陳氏は韓国政府の要請を一顧だにせず、政財界関係者との人脈を築き続けた。ある韓国の国会議員とは「兄貴、弟分」などと呼び合っているとのうわさもあったという。
陳氏が今回の4泊5日の来韓中に会ったとされる議員の中には野党・改革保守新党の金武星議員、孫鶴圭元民主党代表、朴智元前国民の党院内代表、与党セヌリ党の趙源震議員など大物とされる議員も名を連ねている。
陳氏は中国で事業を展開する韓国の企業経営者にも会っていたが、ある大手企業の関係者は政府に「(THAAD配備に関して陳氏から)脅迫めいた話も聞いた」と伝えたという。
一方、金章洙駐中大使は中国政府から相手にされず、閣僚どころがそれ以下の中国政府関係者にさえ接触できなかった事実はもはや秘密でも何でもない。
中国が韓国に大使として派遣するのは常に局長あるいは副局長クラスだ。ちなみに北朝鮮には次官クラスを大使として派遣していることから、韓国は北朝鮮よりも軽く見られている。
ちなみに、袁世凱と韓国のかかわりは、余りよく知らない日本人が多いが、その経緯を、私の「誤解だらけの韓国史の真実」(イースト新書)の関係部分を一部省略して掲載しておく。以下のようなことで、日清戦争の原因になった。そして、その恨みが、辛亥革命で大総統となった袁世凱が反日外交を行う遠因でもあった。
学校の歴史では中国や韓国との外交史について、日本の立場からどういうことだったかまったくといってよいほど教えない。彼らの一方的な言い分だけを聞いて、日本人を自虐的気分にさせ、反論もろくにできないようにしているのだ。
この本では、古代から日本の半島外交がどう展開されてきたか掘り起こして詳細に論じている。
「江華島事件の結果、結ばれたのが「日朝修好条規(江華島条約)」です。この条約で、朝鮮は「自主の国 」であるとしましたが、これを日本は清国の干渉を受けないという宣言であるとして利用することになります。
釜山以外に新たに仁川、元山を開港すること、開港地における治外法権の承認などが定められ、さらに、輸入品に関税をかけず、朝鮮において日本貨幣の通用を認めることまで決められました。 こうして、日本は朝鮮王国の門戸をこじ開け、国交を結ぶことに成功しました。
朝鮮の朝廷では何度か日本に使節を送り、文明開化の成果を知るところとなり親日派が増えました。 ところが、このころ閔妃は巫堂ノリという新興宗教に凝り、莫大な公金を費消するという暴走を始めました。
そして、一八八二年閔妃派の新式軍隊優遇に不満を持つ旧式軍隊や大院君派が暴動を起こし、親日派の政治家を殺すなど閔妃派を一掃し、大院君を執政者に推薦する事件が起りました。このとき、日本人の指導教官は殺され、花房公使は日本に逃げ帰ります。
これを受けて、清国は複雑な動きをします。一方で、日本と大院君派の政府の間で、日本に賠償金五〇万円を支払い、日本に謝罪使を出し、日本公使館に日本兵を駐屯させることを認める協約を締結させます(このときの謝罪使節が船内で考案したのが韓国国旗になっている太極旗です)。大院君のやり方は無茶だと清国も考えざるを得なかったのです。
一方、暴徒に捕まらずに逃げた閔妃は、清国に助けを求めます。それを受けた李鴻章は朝鮮の宗主国であり朝鮮を保護する立場であるとして、袁世凱を朝鮮に駐在させることにして、兵を駐屯させ朝鮮の政治にも介入しましたが、このときの清軍の乱暴狼藉ぶりは目に余るものでした。大院君は壬午軍乱の扇動者であるとして天津に拉致して四年の間、抑留されました。
こういう経過を経て、閔妃はなんと最初とは反対に、清を後ろ盾とした保守派(事大党)の首領になってしまいました。
これに反対したのが、福沢諭吉の影響を受け金玉均らの開化党で、一八八四年、日本公使・竹添進一郎と図って、郵政局の落成式にまぎれてクーデターを起こしました。いったん、高宗と閔妃はこれを追認したのですが、また、袁世凱に助けを求めたので、清軍は王宮を占拠し、日本軍を追い払いました。このあと金玉均は日本に亡命しましたが、のちに、上海に誘い出され殺されました。
ところが、高宗と閔妃は袁世凱があまりにも高圧的なので、ロシアを引き込む陰謀を始めます。それを見た、伊藤博文と李鴻章は朝鮮政府の頭越しに話し合い、天津条約(一八八五年)で、①日清両国は朝鮮から撤退する、②朝鮮の自衛軍を養成することとし、訓練教官は日清両国以外から招請する、③朝鮮に派兵する場合は両国は互いに通告する事とし、事態が終結した際には撤兵する、ということにしました。
また、清は高宗たちを牽制するために大院君の帰国を認め、イギリスには巨文島を占領させてロシアを牽制させました。しかし、ロシアは感鏡道に進出し、各国から警戒されます。
日清戦争と日露戦争は朝鮮王国が引き起こしたという日本人がいます。それは少し言い過ぎですが、朝鮮王室がもう少し思慮深かったら、避けることも可能だったのは間違いありません。
大院君は日本とも組んで政権を回復したのですが、意見が合わなくなり、日本は支持を撤回します。そこで、斥倭洋夷(朝鮮から日本と西洋外国を排除する)を掲げる新興宗教集団の東学党に乱を起こさせて混乱を起こし、清国に介入させて日本軍も追い払おうと複雑な陰謀を組んだのですが、駐留していた袁世凱は清に逃げ帰り、日清戦争に発展してしまいます。