カタカナ英語の使い方には大雑把にいって、二通りあります。一つは元々の日本語と置き換えてもとくに問題がない場合です。例えば、「コンサートチケット」を「コンサート券」と言ってもいいし、「トイレ」を「便所」としても意味は十分に通じます。もう一つが日本語にうまく訳することができない場合で、「エネルギー問題」を「原動力問題」と言い換えるとかえって分かりづらい。
「イノベーション」にも「技術革新」というちゃんとした訳語がありますが、狭義の意味ならまだしも文脈によってはやはり混乱を招きます。そして「コミュニケーション」というカタカナ英語は、この後者の部類に入るのではないでしょうか。「親子のコミュニケーション」は「親子の会話」に言い換えることができそうですが、会話は上手でもコミュニケーションは下手だということもあるので、場合によっては誤解を生むこともあります。
コミュ力とは言うまでもなく、コミュニケーション能力の略語ですが、ネットの意見を見る限り、二つの能力を意味しているように思われます。一つ目が「異性にモテること」、二つ目が「世渡り上手になること」です。どちらかといえば、話術か会話術といった方が正しいような気がしますが、それだと自分の利益のために相手を利用するかもしくは騙すというニュアンスが含まれるので、そういう露骨な表現は避けたのでしょうか。
アメリカの心理学者、二コール教授は聞き上手になるためには、「話し手に対して物になる」ことが必要だと説いています。つまりどういうことかと言うと、自分の欲求や衝動、もしくは次に自分が言いたいことを一旦、棚の上に置いて相手の話に集中することを「話し手に対して物になる」と表現しているわけです。
このようにコミュニケーションにおいて相手を理解することは何度強調してもし足りないくらい大事なことですが、それがなぜコミュ力のように「モテたい」とか「人気者になりたい」というような自己中心的な意味に変化したのでしょうか。
元々は外国語だったカタカナ英語を、日本の文脈に持ち込むこと自体に本来の意味があったはずです。それはちょうど、種子島の鉄砲が、戦国時代の戦い方を大きく変えたように、明治期に導入された鉄道が、江戸時代から存続してきた町並みを大きく変えたように、コミュニケーションという言葉には、私たちがこれまでしてきた情報伝達のあり方を大きく変える可能性があったのです。
これは決してカタカナ英語だけに限られた現象ではなく、外国から輸入された思想も同じ運命を辿っています。例えば、個人主義には本来、日本人の集団主義に対抗するだけの力があったのですが、今では組織から村八分された仲間に対して「個人の責任だ」と言い放つことに多くの人たちが疑問を抱かなくなっています。日本の現状を変えるはずだった言葉が、一般社会に普及するにつれていつのまにか現状を維持する言葉へと変質していくのです。
もし日本に言霊の文化が本当に存在するのなら、カタカナ英語にも言霊(Soul)が宿るのでしょうか。
小谷高春 翻訳家
沖縄県在住