南米出身のローマ法王フランシスコは7日、法王の宿泊地サンタ・マルタ館で慣例の早朝ミサを開いた。その日の説教の内容がバチカン放送独語電子版に掲載されていた。見出しを読んで、“あれ”と思った。見出しは「神は全てを(人類に)与えたが、金は与えなかった」という内容だ。ローマ法王は旧約聖書の人類創造の「創世記」の内容と詩編8章を引用しながら語った。
当方は特別に貪欲ではないが、「全てを与えたが、お金は与えなかった」という見出しを読んで、「お金を与えなかったのがひょっとしたら神の誤算だったのではないか」という思いと、「全てを気前よく与えた神がどうして肝心の金は与えなかったのか」といった不信仰な思いが湧いてきた。
現代人がこの話を聞いたら、「神は全てを与えたというが、金を与えなかったのなら何も与えていないことを意味する」と受け取るかもしれない。具体的に考えてみた。神は愛という内容の説教を百回以上拝聴したとしても、説教を終えて街に出かけ、空腹に悩まされた時、パンと飲み物を買うための肝心のお金がポケットになかったならば、空腹を抱えながらパン屋さんを通り過ぎなければならなくなる。
フランシスコ法王は「神は全て与えた」というが、パンを買うお金は与えなかったとすれば、空腹に悩む人にとって神は何も与えていないことに等しい。
空腹の時、神がパンを買うお金を与えなかったことが、神を否定する共産主義が生まれてくる契機となったのではないか。神が愛の言葉と同時に、パンを買うお金をも与えていたら、マルクスはロンドンの図書館にこもって資本論を書き、資本家の搾取を罵る必要はなかったのではないか、等々の思いが湧く。
それにしても、神は全てを無報酬で与えながら、なぜお金だけは与えなかったのか。今からでも遅すぎない。神はお金も等しく与えるならば、地上から無神論者は一掃され、多くの紛争は解決するのではないか。
全知全能の神がそんな簡単な処方箋を知らなかったはずがない。それとも、南米出身のローマ法王は「神はお金だけは与えなかった」と述べることで、この地上の不平等、不公平さを笑いでごまかそうとしただけだろうか。
フランシスコ法王の説教に耳を傾けてみる。神は人類の創造の際、自身のDNAを与え、自身の似姿としてアダムとエバを創造した。そして被造世界の主管者の位置を与え、愛を与えたという。フランシスコ法王は3つの恩寵(Drei grose Gaben)と呼んでいる。
そして「お金について」はどうか。
Es ist kurios, denke ich: er hat uns nicht das Geld gegeben. Wir haben alles. Aber wer hat uns das Geld gegeben? Ich weis es nicht. Die Alten sagen, dass der Teufel durch die Taschen eintritt: kann sein…
(神がわれわれにお金を与えなかったのは奇妙なことだ。われわれは全てを持っている。誰がわれわれにお金を与えたのだろうか。私は知らない。悪魔はポケットから入るというが……そうかもしれない)
フランシスコ法王も結局、神が何故お金を与えなかったか、その理由を知らないというのだ。そこで当方は考えてみた。明確な点は、①神のDNAには金というものがもともと含まれていなかった、②被造世界の主管者の人間に金は不必要だった、そして③人類が最も希求する愛はお金で計算できるものではない、等の3つの理由だ。
にもかかわらず、人類はその後、お金を得た。カイザルのものはカイザルに、神のものは神に、という論理に従っていうならば、お金はカイザルの世界に属する。神のDNAにも含まれないお金でわれわれはいがみ合い、憎しみ合い、殺し合ってきた 。これが「失楽園」の代価として人類がこれまで払わざるを得なかった結果だろうか。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2017年2月17日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。