中国の学生に桜の語源や桜にかかわる文化を教えようと思って調べ始めたら、泥沼に首を突っ込んだようになってしまった。これまで春が来れば年中行事のように公園で花見をし、さくらは日本文化の象徴であるかのように吹聴してきたが、実はほとんどわかっていないことに気付いた。
語源にしても、皇室記者時代、神話に出てくる稲の神に嫁いだ「このはなのさくやひめ」と関係があるとは聞いたことがある。『古事記』では「木花之佐久夜毘売」、『日本書紀』では「木花之開耶姫」と表記される。「開(さ)く」から「桜(さくら)」と呼ばれるようになったとする説がある。詳しく調べてみると、白川静『字訓』(平凡社)には、
「さく」は「咲く」、「ら」は接尾語。「さ」を農耕に関する語とし、「さ座(くら)」の意とする説もあるが、簡明に解してよい。
とある。白川説は、語音的には「開く」が「さくら」になったとする神話説にも通ずる。だがある特定の名詞に結びついた動詞についてみれば、当然、先に名詞が生まれて、それから動詞が生まれる。だとすれば「咲く⇒さくら」は成り立たない。もともと「さくら」が花の代表としてあり、それが開くので「咲く」という動詞が生まれた、というのであれば理解できる。どうも順序が逆のような気がする。「このはなのさくやひめ」が宿る木だから「さくら」になったのではなく、さくらに宿るから「このはなのさくやひめ」と名付けられた、と考えるべきではないのか。
語源に関する有力説の一つが、白川氏も触れているように、「さ」は田の神を指し、「くら」は神の「座(くら)」だと説明するものだ。稲の神にかかわるという点では「このはなのさくやひめ」にも通ずる。田植えの始まるころに咲き、わずかの間に散り去る花に、豊作の祈りをこめる人の気持ちも想像できる。どうも「さ(田の神)」+「くら(神座)」のほうが説得力がある。「くら」は「倉」にも通じ、農耕とは深い関係がある。
神事が祭事になり、庶民の楽しみ、遊びに発展していくことは多くの芸能や娯楽に共通している。花見好きの一人としては、素直に咲き散る花を楽しめばよいと思う。もちろん、在原業平が、
「世の中に たえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」
と詠んだ感傷もあるだろうし、
西行法師が、
「願わくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月の頃」
と託した信仰もある。さまざまな思いを受け止めてきたからこそ、現代にいたるまで最も愛される花であり続けた。はぎでも梅でも牡丹でもなく、なぜさくらだったのか。色彩、形状、たたずまい、すべてが日本人の心にかなっていたのであろう。詠み込まれ、描き尽くされたすえ、本能的な美感に文化的な審美観が加わった面もあるに違いない。
さくらの散り際が、武士道を連想させ、軍国主義の象徴であるかのようにあがめたてまつられた時代がある。いまでもさくらを、抽象的な「大和魂」のキーワードで解釈しようとする人がいる。だがこの点については、戦前、国語学者で『櫻史』の著書、山田孝雄氏が『中央公論』(1938年4月)に寄せた一文「はな」の中で、「はかなさ」を深読みする見方を戒めている。
山田氏は、よく知られた本居宣長の「しきしまのやまと心を人とはゞ 朝日にゝほふ山ざくらばな」、賀茂真淵の「うらうらとのどけき春の心より にほひいでたる山ざくら花」の歌をたたえながら、「大した理屈はない」と評する。ありのまま詠み、感じることが大事なのだと勧める。押しつけがましい思想を排してこそ、日本人が愛した本当の美がわかると言っている。「伝統」という創られたイメージに目の曇ってしまいがちなわれわれが、常に忘れてはならない警句である。
「はな」の最後にはこう書いてある。
「桜の美は実に多くの花の集合した全体の上にあらわるる美である。・・・国民的感情のあらわれとして、又国民的感情の同感しうるものは花の雲であり、花の霞である」
雑念を排し、賢しらを退け、心を空しくすれば、きっといろいろなものが見えてくるに違いない。語源や魂にこだわるよりも、いかに楽しみ、受け入れてきたかにこそ「伝統」の重みがある。古人が「行楽」と呼んでいたものである。
編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年2月16日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。