「おんな城主直虎」桶狭間と井伊家の真実はこうだ

八幡 和郎

関ヶ原の戦いを数分で終わらせた「真田丸」もひどかったが、「おんな城主直虎」でも開始10分後にテレビを付けたら戦いは終わっていた。皆さんあまりにも消化不良だろうから史実を書いておく。

義元のこの遠征の狙いは、一気に上洛をしようとしたという説から、尾張・三河の国境を固めて、三河の確固たる領国化を狙ったとするものまで様々だ。

ただ、とりあえずの軍事行動の狙いは明らかです。この戦いの前に、今川方は大高城と鳴海城を確保していた。それに対して、織田方は鷲津砦と丸根砦を築いて大高城への圧迫を強めていた。そこで、今川方は松平元康に命じて大高城に兵糧を運び込ませ、丸根、鷲居の砦を攻撃し手中に収めた。

そして、後方の沓掛城から安全になった大高城に移動しようとして、動き始めた。今川軍はにわか雨に打たれて、少し開けた道ばたで休息することにした。そこへ、少数ですが精鋭を集めた部隊を率いた信長は、奇襲をかけた。雨上がりの心地よい気分が、一瞬の隙を作り、今川軍は統制を失った。信長は、義元だけを狙うように的確な指示を部下たちに徹底させ、あざやかに目的を達した。

今川義元の最期を描いた『尾州桶狭間合戦』(歌川豊宣。Wikipediaより:編集部)

かつては、迂回して襲ったといわれていたが、現在は真正面から一気に突っ込んだと分かっている。このときの信長軍は2000人ほど、義元の部隊は5000ほどですが、護衛部隊は300人ほどだったようだ。しかも、奇襲をかけられたときに、退くのか前進するのかも決まっておらず、一方的に餌食にされ虐殺された。

今川方の戦死者は2500~3000人。武将だけで500人も殺された。そのなかには、井伊直盛のほか、錚々たる武将が含まれていた。

井伊家からは200名ほどが従軍していたが、主立った武将16名を含めてほとんどが命を落とた。どうして逃げなかったのか不思議とも言えますが、当時は、雑兵の手にかかって死ぬのをたいへん嫌い、逃げるチャンスがあるのに自害するのはよくあったようだ。義元が討たれたと聞いて、重臣たちが集団ヒステリーを起こしたのだろう。

井伊直盛の遺体は典山孫一郎が并伊谷へ持って帰った。切腹する直前、直盛は造言を遺しました。「井伊家伝記」によれば、「いま、思いもかけず切腹する事になったが、致し方ない事である。お前は、介錯して、首を井伊谷へ運び、南渓和尚に埋葬などを頼むんでくれ」と言ったようだ。中野越後守直由を井伊谷城の留守居役として置き頃合いを見計らい、井伊直親を祖父直平のもとへ移すよう伝えるように」というものだった。

この戦いで、義元が織田信長の出方をどうみていたのか知る由もない。清洲に籠城し少しでも有利な講和条件でも引き出そうとしているか、あるいは、その余裕すらなく、他国にでも逃亡するかとでも考えたのだろう。ところが、信長が選んだのは、練りに練った奇襲戦だった。人生一度の勝負をここにかけたのだ。

その一方、斯波義銀もおおいに利用し、三河の吉良義昭との国境会談に同行し、義銀を国主として立て、尾張は義銀が国主だから清洲城の本丸を譲りまでしている(1556年)。ただし、そののち義銀が吉良氏と旧勢力連合で信長から実権を奪おうとしたという口実で義銀を追放した。桶狭間の翌年のことのようだが、もしそうだとすると、桶狭間の戦いの時の清洲城主は信長でなく義銀だったことになる。

三河では松平元康が桶狭間の戦いのあと、岡崎郊外にある松平家の菩提寺である大樹寺で慎重に時を待ち、岡崎城を今川家臣から平和裡に受け取り、ついで西三河から東三河に支配を伸ばしていった。ドラマにあるように今川はすぐに城を放棄したのでなく、元康は今川勢に頼まれるような形で城を受け取った。そして、織田軍の侵攻と戦っている。今川と決別するのはもっと慎重にことを進めてからだった。

井伊直虎と謎の超名門「井伊家」 (講談社+α文庫)
八幡 和郎
講談社
2016-11-18