今月末、汕頭大学新聞学院の女子学生6人を引率し、福岡・北九州に環境保護視察取材に出かけるの。先日、取材団の名称が決まった。取材テーマの柱を定めるつもりで、チーム名を考えるように指示しておいた。テーマがぐらつき、表面的な事象に追われていては深い認識にたどりつかない。命名を通じ、まずは自分たちの視点を定める必要がある、と考えたのだ。
6人が話し合って決めた名称は「新緑」だった。
「いいんじゃない」
これが私の直感だ。日本人にもすんなり届く。
彼女たちの背景説明によれば、「新緑」は、春が訪れて流れる澄んだ水を「緑水」と呼ぶこともあり、新たな希望、生命の活力を象徴する。さらに「新」は「新聞(ニュース)」の「新」で、それ自体に価値がある。取材団にふさわしい名前だ。
まだまだある。
「緑」は自然環境を代表する色で、「新緑(xīn lǜ シンル)」は中国語で心拍を意味する「新率」と同じ発音だ。自然環境は世界の心臓の鼓動であり、すべての生き物のよりどころであり、取材のテーマと密接に関係している。
申し分のない解説だ。これでわれわれのチーム名は決まった。
だが、やり取りの中で気付いたことがある。日本人にとって「新緑」は珍しい用語ではなく、早春にはしばしば日常会話の中でさえ使われる言葉だ。だが、中国ではそうでもない。引用例はしばしば詩の中に求められる。
日本でもなじみのある唐代の詩人、白居易の『長安早春旅懐』では、
風吹新緑草芽坼 風は新緑を吹いて 草芽(そうが)坼(さ)け
雨灑軽黄柳条湿 雨は軽黄(けいこう)に灑(そそ)いで柳条(りゅうじょ)湿う
とある。風は新緑をなびかせて草木は芽生え、雨は新芽に降り注いで柳の葉を濡らす、というわけだ。だが、白居易が30歳を前に、科挙の試験を受ける悲壮感が詩の背景にあり、そのままチーム名の典拠とするのには抵抗がある。こんな疑問を投げかけると、ある学生が持ち出したのは、唐代・施肩吾の『春日美新緑詞』だった。日本人にはまったくなじみのない詩人、詩なのでメッセージ力がない。
彼女たちとやり取りをし、友人の意見も取り入れ、彼女たちがなぜ出典にこだわるのかがわかった。日常はあまり使わない言葉だからこそ、日本人に対しては詳しい解釈が必要だと考えたのだ。
だが、日本語で「新緑」はすでに幅広く定着している。使い方に特別な感情はない。新聞でもテレビでも、当たり前のように使っている。中国人がことさら詩の中に用例を見つけるのとはかなり違う。ネーミングの過程で、ちょっとした言葉の使い方の違いを発見した。これもまた、日本ツアーが与えてくれた勉強の一つなのだろう。
編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年3月11日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。