給料等の処遇は、最終的には、何らかの成果に対する対価として表現し得る。そして、その成果とは、何らかの仕事の結果だから、企業の処遇とは、成果につながる仕事に対する対価ということになる。しかし、何が成果につながる仕事であるかは、事前には知り得ない。故に、人の評価においては、成果につながる行動様式の重要性がいわれる。
つまり、処遇は、事前の期待の側面においては、成果につながる行動様式への対価であり、事後の結果においては、成果につながった仕事への対価ということになる。なお、敢えて成果に対する対価という成果主義的表現を避けるのは、結果主義的な響きをさけるためである。人事制度とは、あくまでも、事前の取り決めであり、同時に事後的な調整なのであって、単なる結果の測定ではないからである。
ところで、仕事と成果の関係が事前に予測される職種も多い。その場合は、処遇は、仕事の対価、あるいは、より明瞭に、成果の対価といってよいはずである。そうした事態には、二つの類型がある。
第一は、標準化され、故に単純化された作業である。このような仕事の類型は、現在では、非常に適用範囲を拡大させている。肉体的作業においては、高度な機械化が、知的作業においても、高度な情報処理技術の導入が、一連の業務全体を単純化された小さな仕事に分解させることを可能にし、その小さく明瞭に定義された仕事に人を配することができるようにしたのだ。
こうなると、人への処遇は、仕事への対価として規定でき、また、その仕事については、成果が事前に高い精度で予測されることにもなるから、処遇も限りなく成果に対する対価へ接近していくことになる。これは、企業にとって、経営の効率性を高めるうえで、大変に便利なことである。
企業の処遇制度における難問が報酬と成果との間の事後的な調整であることを考えると、このような仕事の明確な定義に基づく仕事の値付けは、人事の問題の相当に大きな部分を、人事の圏外へ放逐した感がある。実際、このような職種においては、処遇制度論が不要になる前提として、正規雇用自体も揺らいでいるわけである。
第二は、専門的な職務として、客観的な仕事の成果の評価が成り立つ領域である。どの企業にもある職種として、法務や会計などはわかりやすい例だし、企業固有の業務についても、研究開発、製造、営業、情報処理など、どの分野においても、長年の経験と知識の蓄積が要求される分野がある。
こういう職務については、現在では、多くの企業で、専門職的な職制を作り、専門性の高さ、職務の難易度、類似職務の業界内での平均的処遇などに基づく処遇制度を用意している。ここでも、仕事の値付けが行われている。ただし、企業にとっては人事戦略的に重要な人材だから、さすがに、ここでは非正規雇用化ということは起き得ないのである。
森本紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
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