福岡に到着した翌日の26日は、福岡県の農村部を回った。博多駅前の雑居ビルに全員で民泊。早起きし、コンビニのパンとおにぎりで朝食を済ませ、博多から約40キロ離れた約朝倉市へ向かった。220年前、筑後川の流れを敷石でせき止める独特の用水工法が生まれた。今では「山田堰」として知られ、干害に悩むアフガニスタンへの技術協力まで行っている(http://yamadazeki.net/hp.php)。
福岡の出版社「中国書店」代表の川端幸夫氏から現地観光協会の里川径一氏を紹介され、里川氏の手配で山田堰土地改良区の徳永哲也理事長と坂田誠治事務局長による案内があった。川端氏も、私の以前の上司である高井潔司・桜美林大学教授から紹介されたもので、まさしく人の輪のバトンタッチだった。今回のツアーは最初から最後まで、この輪が一番の力だった。
徳永氏と坂田氏は、到着したばかりの学生たちに焼き芋を振る舞い、地元産のオレンジまでお土産としてプレゼントしてくださった。最初の本格的な取材で、緊張した彼女たちの心が一気にほぐれたようだった。こうした心遣いは、引率をしている日本人としても非常にありがたい。
実は出発直前に、ちょうど私たちが訪問する26日、朝倉で伝統的な「泥打ち祭り」が行われることを学生が見つけ、ぎりぎりで里川氏に祭りの取材が可能かどうかを打診しておいた。祭りは午後なので、当初予定していた他の取材とチームを3人3人の二つに分けた。私は当初プランの取材を引率し、祭りは九州大学の中国人留学生に通訳をお願いした。上海出身で、日本語が堪能な頼りになる女子学生だ。彼女はこの後もずっと我々の手助けをしてくれることになる。
思いもよらなかったが、里川氏が親切に、朝倉市商工観光課の隈部敏明氏と木原大志氏の二人を、祭り取材の学生の案内役として手配してくださった。慣れない土地で、交通も不案内な中、力強い支えとなった。
泥打ち祭りについては、以下の説明に譲る。
農村の共同体における祭りの意義、農業と神事、人と信仰の関係について探求するのが目的だった。山田堰が人間と自然との共生であれば、祭りは共同体の共生、あるいは人間と神との共生であり、国境のない普遍的なテーマとなる。環境保護が全体のテーマだが、環境には自然環境のほか社会環境も含まれ、保護には保存に加え継承も重要な要素である。
泥打ち祭りは、以前、海外のカメラマンが撮影し、作品がある著名な賞を受賞したとのことで、地元の日本メディアに加え、国内外のフリーカメラマンたちが多数集まっていた。撮影の場所取りも容易でなく、泥を浴びる可能性もある。実際、彼女は腹の位置に泥玉の洗礼を受け、名誉の汚れを残した。
その日、博多に戻ってからの反省会でビデオを担当した学生が口にしたのはまず、「加油!」のエピソードだった。彼女は仲間内のウィーチャットにこう書き残している。
「泥打ち祭りで一番印象深かったのは、日本のおじさんだ。彼は私と同じように、写真を撮るためあらかじめ場所取りをしていた。彼は私に『がんばれ(原語では干巴爹)』と言って、手にしたカメラを振った。私は日本人を装って二言三言話すと、彼は立て続けに日本語で話しかけてきた。私が英語で『中国から来た。日本語はわからない』と言うと、彼は、私が『がんばれ』の意味をわからないと心配して、ひざまずき、地面に『加油』と書いてくれた。そのあと、泥打ち祭りの取材中、また会うと、また『がんばれ』と言った。山田堰から泥打ち祭りの取材まで一日中、三脚をかつぎながら駆け回ったが、心の中は温かく、力があふれてきた。あと8日、がんばれ!」
中国語の「加油(がんばれ)」を知っていたのは、以前、中国に行ったことのある方なのだろうか。「どんな男性だったの?」と聞くと、彼女から一枚の写真を見せられた。
素敵な贈り物をありがとうございます!(続)
編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年4月4日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。