仏大統領選「最速解説」マクロン氏、圧勝見通しも“小池”状態(特別寄稿)

八幡 和郎

決選投票進出を祝う支持者の歓声に応えるマクロン氏(公式Facebookより)

フランス大統領選挙の第一回投票が4月23日に行われ、出口調査によると中道左派独立系新党(EN MARCHE)のエマニュエル・マクロンと、極右といわれる国民戦線(FN)が決選投票に進むことが確定的となった。

5月7日に決選投票が行われるが、4月になってから行われた24種の世論調査でマクロン候補が58.5~71.0%、平均的なところで63%程度の支持を獲得することが見込まれており、この差が若干、縮まることはあっても、勝敗には影響はありそうもない。場合によっては、ダブルスコアの可能性もある。

むしろ、焦点は首相指名と6月11~18日に行われる総選挙に移ることになる。大統領は首相を指名できるが、若干、日本より条件は厳しいが議会による不信任が可能であり、もし、純粋野党系の首相となると、外交・軍事は大統領だが、内政は首相という職務分担になる。

「中道」の期待を集めたマクロン氏

出口調査の結果をみると、フィガロ紙などの予測では、マクロンとルペンが23%、フィヨンとメランションが19%。別の報道ではマクロン24%、ルペン 22%、メランションとフィヨン 20%、アモン 6%、エニャン 4.5%、白票2%、棄権23%、ルモンドではマクロン23,7 % 、ルペン 21,7 %.フィヨンとメランション 19,5 % 。

保守派共和党のフィヨン、急進左派のメランション両候補は健闘したものの及ばず、どちらが三位になるかは当事者にとっては重要。社会党のアモンは惨敗し決選投票でのマクロンへの投票を呼びかけ。(24日午前3時30分執筆)

マクロンは財政監察院のエリート官僚だがロスチャイルド銀行副社長格も経験。もともと社会党で、オランド大統領とヴァルス首相のもとで経済相をつとめていたのだが、社会党左派に改革に反対されて閣僚を辞任し、新政治運動を立ち上げて左右の対立の克服を掲げて大統領選挙に打って出た。

社会党と共和党はそれぞれ予備選挙をしたのだが、英米などでの予備選挙と同じように、予備選挙ではどうしても左右極端な候補が選ばれやすい。

実際、オランド大統領の支持率低迷で絶対有利だといわれた共和党は中道左派的なジュペ元首相でなくキリスト教色や市場経済至上主義が顕著なフィヨン元首相、社会党ではソーシャル・リベラルといわれるヴァルス前首相でなくベイシックインカムや大麻解禁などユニークな主張を掲げるアモン元教育相が選ばれた。

このために、マクロンは中道の空白ゾーンの期待を集めることになった。しかし、それでもフィヨンの有利は動かぬと見られ、マクロンの狙いは善戦して、次代のホープとしての地位確立でないかとすら見られた。ところが、クリーンが取り柄のはずのフィヨンが夫人や子供たちが勤務実態がないにもかかわらず公設秘書としていたことが暴露され、一気に人気が急落した。そこで候補差し替えも議論されたが時間がなく、フィヨンがそのまま立候補した。

アモンはもともとオランド大統領や社会党幹部の支持を得ておらず、さらに、メランションの協力も模索したがアモン自身が弱すぎて話し合いは進まなかった。

マクロン氏と小池百合子氏の“類似点”

マクロンの支持者集めは小池都知事に似たところがあり、左右それぞれで既存政党のあり方に不満な人々を幅広く集めた。シラク大統領のもとで首相だったドビルパン、中道のエースとして何度も大統領選挙に立候補したマドラン、社会党のルドリアン国防相、ドラノエ前パリ市長、共産党の元党首だったヒュー、五月革命の英雄ダニエル・コーン=ベンディットなど多彩なメンバーが集まったし、アメリカのオバマ前大統領も激励の電話をしている。

マクロンは1977年生まれの39歳だし、何しろ、選挙に立候補したことがない。それだけにテレビ討論などでぼろが出ると心配されたが、明晰な頭脳でかなり見事に切り抜けた。マクロンの決選投票進出をうけて、フィヨン、アモン、メランションなども消極積極はともかくマクロンを支持するだろう。

しかし、5月7日に選ばれたあとただちに組閣が始まるが、見通しは非常に難しい。そして、6月の総選挙にどのような与党を率いて望むのか流動的だ。現在はアモン、メランションの票を切り崩すために左寄りの路線だが、決選投票へ向けてはもう少し右寄りになるはずだ。

しかし、二大政党のどちらかから出た大統領なら、その与党が総選挙で勝利するのが普通なのだが、いまのところ、議員がほとんどいないのは、小池新党と同じなのだ。

マクロンは新しい与党になるためには、既成政党を離れてもらうと“小池さん”チックなことをいっているが、はたして社会党の解体、共和党からかなりの人数が参加ということになるかどうか不透明だ。

ただ、いずれにせよ、現オランド大統領の元重要閣僚で、EU統合推進派のマクロンの当選は、フランスの既成政治への不満への受け皿として機能したことを示すわけで、その意味ではイギリスのEU離脱、イタリアの国民投票敗退による首相退陣などで揺れていたヨーロッパにいちおうの落ち着きを与えるのでないかと期待される。

マクロン氏Facebookより(編集部)

妻は25歳上 マクロンの正確な経歴

1977年12月21日 神経学者のジャン=ミシェル・マクロンと医師であるフランソワーズ・マクロン=ノーグスのあいだでソンム県アミアンに生まれる。

サルトルの母校であるアンリ4世高校(日本で言えば旧制高校に近い)を経てパリ第10大学入学。ヘーゲルに関する論文で学位取得。高等師範に入りたがったようだが二度試験を落ちている。そして、パリ政治学院ののち国立行政学院(ENA)に入る。

2004年 ナイジェリアで研修などしたのち、卒業順位制度がそのとき停止されていたのでややこしいのだが、もっとも人気のある就職口のひとつである財務省財政監察官(ジスカールデスタンなどと同じ)となった。なお、ウィキペディアは会計検査官と誤訳しており、私もしばらく騙されていたが、財政監察官が正しい(シラク、オランドなどは会計検査官)。

財政監察院は、たとえば、「研究活動の評価方法はいかにあるべきか」といった行政運営の指針作りを本来の仕事としている。ここで、マクロンは仏官界の大物で現在は大統領府事務総長(内閣官房副長官を強力にしたような仕事)であるジュイエから可愛がられる。

そして、次のポストで経済成長推進委員会の事務局をつとめたときにネスレのブラベック会長と出会いその勧めでロスチャイルド銀行入りし2010年には副社長格にまで昇進した。

思想的には左派でシュベンヌマン国防相の流れに近く国防は重視だった。2006年に社会党に入党している。

そして、2012年、ジュイエのもとでオランド大統領の大統領府副事務総長となった。2014年には緊縮財政路線を批判して更迭されたアルノー・モントブールの後任として第2次マニュエル・ヴァルス内閣の経済・産業・デジタル大臣に就任。

「経済の成長と活性のための法律案」(通称「マクロン法」)を議会に提出し、雇用の自由化や商店の日曜営業の拡充、長距離バス路線の自由化など多様な規制緩和策を提案したが社会党左派からは批判された。

2015年2月、ヴァルス首相は憲法49条3項に訴え、不信任が可決されない限り議会の表決なしで法案を採択させた。しかし、このころから、社会党の変革では未来がないと考え、2016年4月「左派右派のあらゆる良き意思を結集」して「左派でも右派でもない政治」を目指す「前進!(En Marche!)」を結成。8月30日に経済相を辞任した。そして、11月16日大統領選挙に出馬を表明した。

ブリジット夫人は高校時代の国語の先生であり演劇部顧問で25歳年上。三児の母だった。彼女との関係を心配した両親がパリの高校に転校させたが、27歳のときに結婚している。

ENA卒業後10年間の公務を果たしていないので、在学中の給与のうち数百万円を返還している。

追伸:アモン候補、フィヨン候補、保守のラファラン元首相、社会党のヴァルス元首相らがマクロンへの投票をよびかけ(午前3時20分)テロ事件はほとんど影響せず。ルペンはわずかに回復したがフィヨンはむしろ落ちたし、マクロンは予想通りの得票で左派のメランションは伸び悩みで相殺されている。むしろ事件後の演説などの差が出たとみられる。