日本でもなじみの深い胡耀邦元総書記の夫人、李昭女史の遺骨が4月15日、夫の眠る江西省共青城の富華山霊園に埋葬された。日本取材ツアーの記録をまとめているさなか、北京の友人からニュースを知らされ、万感の思いだった。この日はちょうど胡耀邦氏の28回忌だった。
「合葬」のセレモニーには胡耀邦ファミリーのほか、夫妻をしのぶ2000人が集まったという。
李昭女史が病気で亡くなったのは3月11日。享年95歳だった。17日には北京西郊の八宝山で告別式が行われたが、この間、北京の路地裏にある自宅には花輪と弔問客が絶えなかった。北京に住まいのある私の大学同僚も弔問に行き、教師のグループチャットに多数の写真を送ってきた。質素な暮らしぶりを伝える部屋の様子に加え、その中に中曽根元首相からの献花と弔電があった。
胡耀邦ファミリーと関係の深い企業家、姜維氏を通じ、長男の胡徳平氏にあてた弔電にはこう書かれている。
「私は首相時代、胡耀邦氏と『平和友好・平等互恵・相互信頼・長期安定」の日中関係における四原則が両国間に永遠続くよう確認しました。ここに、絶えず私と胡耀邦氏との友情と信頼関係が深まるよう支えてくださった胡夫人に心より感謝申し上げるとともに、深く哀悼の意をささげます」
李昭女史は夫を陰から支え、北京服装協会会長や服装時報社社長の身分で各国との文化交流を行うことはあったが、表舞台に出ることは少なかった。その慣例を破ったと言われているのが、1984年3月24日、胡耀邦氏が、訪中していた中曽根元首相夫妻を中南海に招いた際、李昭女史がその他家族とともに同席した事例だ。前年の胡耀邦訪日で、中曽根氏が自宅に招いた返礼だった。
李昭女史の逝去にあたり、改めて胡耀邦夫妻と日本との深い縁を思った。
作家・山崎豊子氏の代表作の一つ『大地の子』は胡耀邦氏の強力なバックアップによって誕生した。同作品は月刊『文藝春秋』に連載され、その後、出版された。山崎豊子氏が1991年6月、共青城の墓前に同著上中下3巻を捧げた写真が残っている。
胡耀邦氏は、共産主義青年団リーダーとして10年間、開墾や植樹、文化学術振興を奨励した。自ら十数歳で革命に身を投じた「小紅鬼」だけに、若者の育成にことのほか心を砕いた。新国家建設の理想に燃える上海の青年団98人が1955年、江西省九江市の鄱陽湖畔に開墾した共青城は特に思いが深く、当時と総書記時代の2回足を運んでいる。「共青城」の名も彼がつけた。
晩年は民主化を求める学生たちへの寛容な態度が批判され、総書記から平の政治局員に格下げされる。なすこともなく不遇の晩年を過ごし、「死んだ後は(党幹部が埋葬される)八宝山には行きたくない」と遺言を残した。血なまぐさい政治闘争から逃れ、かつて、若者たちとともに理想と情熱を傾けた思い出の地に、ようやく夫妻そろって返ることができたのだ。
胡耀邦氏が共青城に埋葬された際、傍らに置かれた石碑には、李昭女史の字で、
「光明磊落 無私無愧」(公明正大 私心なく恥じることもない)
と刻まれた。どんな巨大な石にもまさる重い言葉だ。
編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年4月24日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。