中国語で、「はい」と肯定する際に用いる表現は「対(dui)」である。初級中の初級だが、実はこれが中国の伝統思想を反映する一番深い言葉なのではないかと思っている。「あなたの発言/行いは正しい」というときにも使われるし、「対了」と言って、何か大事なことを思い出した際にも用いる。偏りのない、バランスの取れた判断、正鵠を得た見解、落ち着くところに落ち着いた、収まりのよい状態といった幅広いニュアンスがある。
中国では旧正月に、家の門の左右にめでたい対句を紙に書いて貼り、縁起を担ぐ習慣があるが、これは「対聯(dui lian=ついれん)」と呼ばれる。日本の正月は門の両サイドに門松を飾るが、同じものを二つ並べるだけだ。対句のように、異なるものを結び付け、バランスを図る「対」の感じがない。
(汕頭・小公園付近の老舗店)
(仏山・嶺南天地の涼茶店)
中国の「対」には肯定の意思表示ほか、「一対」と組み合わせを表す対称の意味や、両者が向き合う「面対」「対象」の意味もある。日本では肯定の意味では使われず、こうした用法だけが残っている。
先週の授業で神や天の話題を取り上げた際も、「対(つい)」が話題になった。日本人の生活文化、各種の年中行事や祭りの中に、神事は深く溶け込んでおり、学生から「日本の神について教えてほしい」と強い関心が寄せられた。宮崎駿監督作品『千与千寻(千と千尋の神隠し)』の影響もある。そこで日本の記紀神話に触れたのである。
『古事記』、特に『日本書紀』は『淮南子』など中国の史書にある陰陽思想を下敷きにして、天地創造を描いている。だが、天が生まれた後の神話は、日本独自のストーリーが展開され、『千と千尋』を思わせる八百万の神(やおよろずのかみ)のオンパレードである。
注目すべきは、記紀で若干の違いがある点だ。中国思想の影響が強い正史の日本書紀では、父イザナギと母イザナミの間に天照大神(アマテラス)、月読命(ツクヨミ)、須佐之男命(スサノオ)の三貴子が生まれる。だが、より古代の伝承に近い古事記は、イザナギが黄泉のけがれを落とすみそぎのため、左目を洗ったとき生まれたのがアマテラス、右目からはツクヨミ、鼻からはスサノオが生まれたとしている。
男女の一対からではなく、父の体の一部から神産みが行われている。そこには陰陽の「対」とは異なる思想がある。「海」が「産み」に通じるように、水の聖なる力に対する原初的な信仰が感じられる。あらゆるものに神の存在を認める、日本人の雑多で、多様な信仰につながる精神だ。
中国では、人間界の最高位にある皇帝のさらに上にあって地上世界を支配する「天」の思想が生まれた。天は対立を超越した不可侵の領域で、集権体制を支える理論的根拠となった。皇帝は天の子=天子と位置付けられたが、天命を失えば交代させられることも意味した。「対」が天を支えていた。対立の超克から真理をとらえる思考は、中庸にも表れている。中庸は、単純な「足して二で割る」ではなく、両極端を超越し、対立からさらなる高みにたどり着こうと模索する思想である。
だが、日本では天の教えが根を下ろさず、天は八百の万神が集う場所でしかなかった。天には八百万の神が混とんとしており、対の思想が生まれる余地はない。「お天道様」は太陽神と結びつけられた。人々は天よりも、神の化身を畏れた。天皇の権力は常に貴族や武士階級から挑戦を受け、安定した武力政権においても封建制の制約があった。決して強大な権力の集中を生まなかった日本の政治風土も無関係ではない。
「対」の思想を欠くことは、対立を避け、平和な状態を希求する温和な性向を生む。また、茶の湯や生け花の美が、人工的でない、自然な非対称にあることは、だれもが認めるところである。と同時に、「対」の座標軸がないため、正体不明の空気に流され、知らず知らずのうちに極端な一方向に流される危険もはらむ。日常生活の中で、YesもNoもはっきりさせない言い方がかくもはびこる社会は珍しい。「対」の発想を、対立の対象ではなく、対照、対称、対等の関係から生かすことができれば、この世はもっと暮らしやすくなるに違いない。
次回は、中国文学者、駒田信二氏の語る「対の思想」について触れてみたい。(続)
編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年5月2日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。