学生の訪日取材を機に感じた、日本メディアの「ガラパゴス化」

加藤 隆則

3月25日から4月2日まで、汕頭大学新聞学院の学生6人が福岡、北九州、熊本をめぐった環境保護取材ツアーの成果発表会(分享会)が5月7日、同大学図書館の講堂で行われる。同学院では毎年、海外に取材ツアーを送り出しているが、その都度、同じように分享会が開かれる。参加学生が体験や感想を語り、興味を持つその他学生との質疑応答を通じ、成果を共有するという趣旨だ。

宣伝用のポスターが出来上がったが、中国人学生が抱いている日本のイメージを表すように、ほのぼのとしたイラストがちりばめられている。

取材チームの名前は「新緑」。日中に共通する春の言葉であり、中国語で同じ音の「心率」は心臓の鼓動を表す。人間が自然と共生する理念を体現したものだ。取材では日本の公害の経験や、伝統的な自然農法や農村祭祀を学んだ。だから分享会のタイトルは、「温故知新緑」とした。「日本報道の分享」とあるが、「の」はすでに中国でも店舗名にまで使われており、そのままで通用する。

政治色を取り除き、色眼鏡をつけずに日本を伝えようとすると、中国のネットではしばしば批判にさらされる。それが近年、日本旅行の広まりとともに、変化しているように思える。経済大国化の自信もあるだろう。強力な習近平体制が築かれ、国内かく乱の政治意図をもった「反日言論」が抑制されている側面も無視できない。正しい、開かれた目で隣国と向き合おうとする中国人の姿勢は、日中交流史において、かつてないほど高まっていると言ってもよい。そうした時代背景の中で、大学の日本取材ツアーが実現し、分享会が開かれる。

今回の取材ツアー費用はすべて大学が出した。他大学の新聞学院にはない特色だ。李嘉誠基金の強力な支えなしにはできない。実際に自分の目で見て、身をもって体験することが、国際感覚を身に着けることになるとの理念である。学生による記事や映像は内容さえ伴えば、新聞・雑誌やネットメディアが取り上げてくれる。すでに8本の原稿と2本の映像がメディアに送られ、掲載を検討中だ。市場があればチャンスがある。社会は日々刻々変化している。

振り替えって、同じことを日本でできるだろうか。大学は建物にお金をかけ、天下り官僚に高給を払うことはあっても、学生を育てることにこれだけの予算は割かないだろう。学生も隣国に対しそこまでの関心を失っている。日本の世界に対する無関心、不見識は、鎖国時代の再来さえ思わせる。

先日、北京の友人から、ある日本のライターがネットメディアに公表した中国の鎖国体制を批判する文章を送られたが、途中まで読んであきれてしまった。中国は1949年の建国後、かつてないほどグローバル化が進んでいる。それは中国が選ぶ選ばないとにかかわらず、抗うことのできない国際潮流である。自分たちの閉ざされた心のはけ口を他者に求めるような発想は、子どもの陰湿ないじめと同じで、どうみても健全とは言えない。そういう内向きの文章ばかりを喜んで掲載するネットメディアにも問題がある。

さらに言えば、寡占体制に甘んじる日本の伝統的メディアも、口では社会との共存を語りながら、社員以外の記事に目を向けるなど望むべくもない。パイが減り続ける中、発行部数頼りの経営から抜け出す勇気を持てない新聞は、自分の失敗を極度に恐れ、他紙の敵失にすがるしかないゆがんだ体質を生んでいる。他紙の誤報をこれでもかこれでもかと繰り返す大新聞は、業界自体の自滅という墓穴を掘っていることに気付かなければならない。これこそが鎖国的体質である。ニュース市場は閉ざされた空間の中でいびつな均衡を保ち、ますます情報のガラパゴス化が進んでいる。

新緑のような新鮮な目で、貪欲に外界を知ろうとする中国の若者たちそのものが、私にはまぶしい新緑に見える。環境保護について、虚心坦懐に日本の思想、制度、政策から多くのことを学んでいった。大学がそれを支援し、メディアが発信に力を貸そうとする。激変し、曲がり角に立つ時代の中で、社会が大きく変化しているのだ。だからこそ私は別の感慨を持つ。中国の教壇に立ち、母国を隣国としてながめながら、隣の芝生が青く見えないのが残念でならない。


編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年5月3日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。