憲法改正についての論議は、戦争についても考え直すチャンスだ。戦後教育では戦争について何も考えないことを平和主義と考えてきたが、これは過ちを繰り返す原因になる。本書はやや専門的だが、名著『失敗の本質』の共著者が、陸軍の失敗の原因を組織面から解明した論文集である。
軍部の暴走の原因として、よく「統帥権の独立」があげられるが、これは昭和になってできたものではない。明治憲法にも「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と書かれ、天皇が政府から独立に軍を統帥することが定められていた。それは司法権の独立と同じく政党の干渉から軍を守るための規定であり、当時これを問題にした首脳はいなかった。
日露戦争のころまで、統帥権の独立は戦争の障害にならなかった。伊藤博文など藩閥の首脳が統帥権を無視して作戦まで口を出し、藩閥が実質的な「統合参謀本部」になったからだ。元老は武士(軍人)だったので戦争を知っており、統治の技術も身につけていたので、明治政府はそれなりにバランスがとれていた。
そのバランスが崩れた原因は、皮肉なことに「大正デモクラシー」で政党の力が強まったことだ。それまでよくも悪くも権力を独占していた藩閥の力が弱まり、軍は政党の協力を得ないと予算が獲得できなくなった。永田鉄山も認識していたように、統帥権の独立は、第1次大戦以降の「総力戦」の時代には適していないのだ。
そこで陸軍は政党と組んで勢力を拡大する一方、参謀本部と陸軍省の権限を厳格に区別し、政治家が陸相になっても作戦に口を出せないようにした。このため陸軍出身の東條英機が首相になっても、参謀本部は作戦の内容を「軍事機密」と称して教えなかった。東條が真珠湾攻撃を知ったのは、その1週間前だったという。彼が陸相と参謀総長を兼ねたのは独裁者だったからではなく、そうしないと戦争を指導できない弱いリーダーだったためだ。
参謀本部と陸軍がバラバラで、情報の共有が行われなかったため、参謀本部は膨大な戦力を要する作戦を立て、陸軍はそれを止めるために補給を減らした。日本軍は「補給を軽視」したのではなく、補給についての情報がないまま作戦を立てたのだ。この結果、戦死者の半分近くが餓死・病死という、戦史に例をみない愚劣な戦争が行われた。
著者は現代へのインプリケーションを語っていないが、サラリーマンなら心当たりがあるだろう。「一強」をきらって強いリーダーを排除する日本的アナーキズムは、平時には独裁者の出現を防ぐブレーキとして機能するが、戦時には指揮系統が大混乱になってしまう。日本の企業が技術を改善する小さな意思決定は得意だが「大きな意思決定」ができないのは、その構造的な欠陥なのだ。