“安倍晋三デタラメ九条いじり”の禍根と害毒 --- 中川 八洋

寄稿

編集部より:安倍首相の「2020年改憲」構想表明に対し、アゴラ執筆陣の多くが概ね肯定的なようですが、保守論客の中には異なる受け止め方をする方もいます。首相の“改憲発議”にユニークな視点で異論を唱える中川八洋・筑波大学名誉教授の論考を敢えて掲載し、執筆陣や読者の皆さんの議論の参考にしていただければと思います。


首相官邸サイトより(編集部)

安倍晋三の“スーパーお馬鹿ぶり”は、ますます露骨あらわになってきた。が、政界における「自民党に人なし、競争政党もなし」の現況に助けられて、人気については下降する気配はない。安倍晋三が、選挙で(議員数の約三分の二を自民党候補に当選させる)得票を大きく伸ばす/維持することに効果的な目玉政策を花火よろしくタイムリーに打ち上げる“人気至上主義の選挙屋”であることも、その内閣支持率が安定的である理由の一つだろう。

このような“選挙屋”安倍晋三らしく、1960年の岸信介の挫折に懲りて憲法改正を公然と口にする自民党総裁は影を潜めていた中で、安倍晋三は、さる2017年5月3日、民族系最大の団体「日本会議」の集会で、ビデオメッセージを寄せ、憲法第九条の異様な改正(改悪)を高らかに宣言した。ついでに、日本維新の会への媚諂いも含意されているようだが、教育行政レベルの問題にすぎない“高等教育の無償化”を憲法条項にする馬鹿げた憲法改正(改悪)まで公約した。

この二点を旗幟鮮明に改正争点にすると宣言した安倍流憲法改正(正しくは「憲法改悪」)は、いずれも(選挙における)人寄せパンダ効果が抜群のテーマではありえても、我が日本国の憲法として喫緊に必要だとか国家の存立に不可欠だとかの常識や理性からは程遠く、むしろそれを積極的に排除したもの。要は、「次回の総選挙において自民党ブームが沸き立ち、自民党の選挙大勝を導く特効薬になることが間違いなさそうだ」からの、選挙勝利手段としての憲法改正の主導宣言である。安倍は、憲法改正を(日本国のためではなく)、自分の選挙のために、いわゆる私物化している。

例えば、四文字「憲法改正」を聞くだけで“パブロフの犬”のごとく条件反射的に興奮する日本会議などの民族系は、安倍晋三フィーバーで全力疾走の選挙応援をすることは想像に難くない。また、「高等教育の無償化」は、かつて北朝鮮人・土井たか子の「高校全員入学」や朝鮮人ハーフ・小沢一郎の「高校授業料無償化」が大量の票を集めた選挙戦術を踏襲した三番煎じだから、確かに得票数急騰に大いなる効果を発揮するだろう。

が、「高等教育の無償化」を別の側面から眺めると、日本の財政破綻に拍車をかけ、かつ日本の高等教育が今より以上に低落化して惨状を呈する逆効果の方が間違いなかろう。つまり、これほどの反・教育の愚策はない。安倍が心底で懐く本心は「自分の選挙と人気のためなら、日本の教育の自壊的崩壊なんか、俺の知った事か」であり、“私利私欲のための憲法条文化キャンペーン”と譬えるしかない。安倍晋三は、国家国民のためにあるべき憲法を、私物であるかのように弄んでいる。

国家を腐食し尽す憲法第九条二項を残そうとするのは、安倍晋三が日本を憎悪しているからだ!

「高等教育の無償化」という“トンデモ反・教育”については別稿で論じるとし、本稿では、安倍晋三の「憲法第九条改悪」が、いかにトンデモ改悪であるかにつき、要点だけだが指摘しておきたい。詳しい論及は、後日にする。ビデオメッセージでの、安倍晋三の発言は次の通り。

「九条の平和主義の理念については、未來に向けてしっかりと堅持していかねばなりません。そこで、《九条一項、二項を残しつつ、自衛隊を(第三項として)明文で書き込む》という考え方は、国民的に議論に値するのだろうと思います」。

「九条は、平和主義の理念」とは恐れ入った。そんな戯言は、第九条の改正とそれによる国防軍設置を阻止するために、共産党系・社会党系の憲法学者がデッチアゲた政治プロパガンダであって、学術的な学説の範疇にはない。「九条は、平和主義の理念」とは、学問に擬装した“非・学問のカルト宗教のドグマ”である。しかも、日本国民を骨の髄まで腐らせた、日本人から国防の精神を剥奪するばかりか、日本人の国家意識(日本国民として自覚や自己認識)を溶解し尽した、戦後日本で最も恐ろしい有毒イデオロギーが第九条である。

もし岸信介が生きていればこのような共産党系の政治プロパガンダを信仰している安倍晋三の愚昧な狂気に怒り心頭に達して、その顔面を、形が残らぬまで殴っただろう。岸信介は、第九条とはGHQの占領下で主権喪失の日本がポツダム宣言の武装解除条項をそのまま掲げた条文である事実を正確に把握していたし、国防軍の保有無くして日本の主権は回復しないと正しく認識していた。

とすれば、安倍晋三は、(サンフランシスコ講和条約が発効して、GHQが消滅した後も)憲法第九条に国防軍を明記する事で“日本国の真正の主権回復”を果す、正しい執念を燃やし続けた岸信介を継ぐ良き孫には程遠い。野坂参三とスターリンを崇拝した100%共産主義者・安倍晋太郎の息子である。

十八番スローガン「戦後レジームの脱却」もポイ捨てした、自分の公約にすら責任感ゼロの安倍晋三

安倍晋三の人格には、政治家としての信念や公約を貫こう/守ろうとの誠実性がいっさい無い。安倍晋三にとって、公約は“日替わり定食”のような、選挙ごとの集票手段に過ぎない。だから、「拉致被害者奪還」公約もポイ捨て。「靖国神社への毎年一回参拝」公約もポイ捨て。「物価2%上昇のデフレ脱却=アベノミクス」公約もポイ捨て。「・・・」公約もポイ捨てと、公約ポイ捨てが安倍晋三の常習となっている。

憲法第九条第二項が「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」となっているのは、ポツダム宣言第九項が「日本国軍隊は完全に武装解除(=非武装化)される」となっている以上、また戦勝国の占領中に憲法を制定したら国防は占領軍が代行する以上、当然至極の条文。この条文に日本側の干与する余地などあるべきもないし、理論的にもこの条文こそ常識的なもの。

もう一度言う。第九条第二項は、日本国(日本国民)が選択した条文ではなく、戦勝国が戦勝占領の権利として敗戦国日本に強制したもの。それを日本の極左憲法学者はどうして、「日本人が、戦争の体験から《平和主義》を選び、理念的に定めた憲法条文」だと、捏造の真赤な嘘に摩り替えるのか。

それ以前に、そもそも、敗戦国の武装解除disarmが、どうして「平和主義」なのか。「武装解除」は「武装解除」であって、それ以外ではない。また、「平和主義 pacifism」などという珍奇な言葉は、宗教ならあり得ても、また(クエーカー教徒のように)この宗教を信仰する個人レベルではあり得ても、現実の国際場裏で生きる主権国家が選択できるそのようなものではない。たとえば、「pacifism信仰者は、良心的徴兵拒否の権利を付与される」等と使用されるものであって、世界のいかなる国家にも、その国家の軍隊にも、「平和主義」というカルト宗教的な信仰など許されない。

軍隊とは、国防において軍事力の行使をする実力組織の事。信仰や宗教信条を持つ個人ではない。要するに、国家が平和か防衛か戦争かの選択をする主体になるが、軍隊はこの国家(政府)の決定・命令に従って、その軍事力を行使する国家組織の一つに過ぎない。すなわち、国家を代表して政府が、平和か防衛(かつては「戦争」と称したが、現在の国際法では「自衛の軍事力の行使」という)か、を決める。軍隊が平和か防衛かを決定することはできない。

現在の日本に当て嵌めて言えば、現行第九条は、国家やその代表たる内閣や国会に対して非武装・武装解除を命じているのであり、自衛隊は第九条の枠内にはない。こういってもよかろう。自衛隊は、(第九条に配慮して国内法上は軍隊ではないよう、警察と軍隊の中間組織にしているが)第九条の外にある“令外の官”であって、第九条を母体として生まれたのではない。自衛隊は、国際法の遵守を定める憲法第九八条第二項の子宮から生まれた。そして第九条二項が、それを畸形児化した。

それなのに、“スーパーお馬鹿”と言うより、愚昧な狂気を発症する安倍晋三は、自衛隊の大義を、自衛隊の出生の戸籍記載内容に反するのに、第九条の新しい第三項に定めようとしている。どうも安倍晋三の知能指数はアヒルか豚並みであって、人間の水準にはない。

この法理論上の解説はまだ続くのだが、紙幅の関係から、いずれ別稿で論じることにして、ここで止める。が、公約「戦後レジームの脱却」を連呼してきた安倍の、公約をポイ捨てする(政治家としての)犯罪行為的な病癖については、もう一度、読者に喚起しておかねばならない。

なぜなら、「戦後レジームの脱却」の最たるものと言えば、日本という国家に武装解除(陸海空軍の三軍保有の禁止)を命じた憲法第九条第二項を全面削除し、代わりに、主権国家の要件である国防軍の設置を命じる新・第二項を定める事である。それなのに、安倍は、「戦後レジームの脱却」の筆頭である“第九条第二項の削除”を、2017年5月3日に「しない」と傲然と言い放った。言葉に責任感がいっさいなく風車のようにくるくると主張を変える、変質者的な安倍晋三の異常さは、騙しの必要に応じて言葉や話をくるくる変える職業ペテン師/詐欺師の巧みな虚言よりはるかに悪質である。

有事総動員65万人の陸軍を持つ永世中立国スイスを「平和国家でない」と難癖つける安倍晋三

安倍晋三の話も言葉も、かくもハチャメチャ。“成蹊大学卒のスーパーお馬鹿”だからだけが理由ではあるまい。嘘を吐いてどこが悪い、国民を騙してどこが悪い、国家を私物化してどこが悪い、最小限の知識がない無教養の極みでどこが悪いの、ならず者rogue特有の不逞の人格が安倍晋三の本性であることに起因していよう。

このことは、「憲法第九条は平和主義の理念」だと、第九条の宗教化キャンペーンを永年してきた共産党のトンデモ言説を、安倍が即座に「間違いも甚だしい。許せない」と発想せず、逆に共鳴することで明らかだろう。例えば、日本人なら誰でも永世中立国スイスの事は知っており、このスイスと比較すれば、「憲法第九条は平和主義の理念」など洗脳プロパンガンダであることぐらい直ぐわかる。が、安倍は、スイスにつき初歩的な知識すら知ろうとすらしない。自らの間違いや嘘や無知に恥ずかしいとか/いけないとかの、良心が全くないのである。

スイスは、連邦軍を憲法で定め、また徴兵制も憲法で定めている。とすれば、スイス憲法は、日本の憲法第九条とは真逆の憲法。安倍晋三にとって、日本の憲法とは「平和主義」だから、それと真逆な憲法条項をもつスイス憲法とは「戦争主義」ということになる。だが、世界のいかなる国も、「スイスは、戦争主義の国」とは考えていない。現実にもスイスはそうではない。

スイス憲法は第18条で国民皆兵(徴兵制)を定め、第19条で連邦軍を定める。スイスは憲法第13条の常備軍保有の禁止によって、職業軍人は四千名しかいない。が、有事動員で20歳以上50歳(将校は55歳)までは全員招集が可能な体制になっている。動員レベルにもよるが、最低でも(人口800万人強のうち)100万人近くまでの有事軍隊を編成できるはずだ。尚、スイスが良心的兵役拒否を認めないことは余りに有名。

スイス憲法第18条第1項は、「いずれのスイス人も、防衛義務を負う」。第19条第1項は、「連邦軍は、左のものより成る。a邦の軍団・・・・・」。

有事には全国の20歳以上の男性すべての総動員が可能な制度になっているスイスでは、この故に、20歳になると『兵士読本』と軍用ライフル銃と軍装が支給される。1980年代までは弾薬も60発ほど支給していたが、今では、弾薬は(各家庭ではなく)各地域単位で管理されている。ある家で父親が49歳で長男が21歳であれば、その家には軍用ライフル銃が2丁ある。米国を「銃社会」だと朝日新聞は騒ぐが、スイスの家庭における銃保持とその銃の威力に比すれば、「米国=銃社会」とはとても言えず、間違いとなる。

第九条二項がある限り、日本の国防は病人的弱体化が進行し、国民の倫理道徳は退嬰し潰える

“血と歴史が祖先から子孫へと継承される共同体”である国家とは、国民の“祖国への献身”をもってその生存と存続の生命と力を得て、またその生命の再生をする。この“祖国への献身”の中で最枢要なものは、外敵から国土を守る国防である。

外敵から国土を守る国防は、軍事的国防と諜報・防諜的国防の二本柱からなる。前者の組織が軍隊であり、後者の組織が対外諜報・国内外敵防諜の国家機関である。米国でいえば、前者が陸軍・海軍・空軍・海兵隊の四軍。後者の対外諜報がCIAとNSAとDIA、後者の国内外敵防諜がFBI。

軍隊であれ、対外諜報機関であれ、それは科学的に最高水準の兵器や機器が必要最大量を上限に装備されるだけでなく、生身の人間によって構成される。後者の「人員」は、死との直面を厭わない“自己犠牲の精神”に満ちていなければ、その職務を完遂できない。「軍人の崇高なる自己犠牲の精神こそが、国家を物理的な破滅から救うだけではなく、繁栄と平和によって祖国に糜爛する退嬰と腐敗から国民の高貴性と健全性とを回復させ維持していく」のであって、このことは古今東西に亘って変らぬ“軍隊が国家と国民に果たしている核心的機能”である。

以上の正しき知見において、自衛隊を学術的に凝視していこう。日本の自衛隊は、軍人では無く、国家公務員の自衛官からなる実力組織になっている。軍人(ミリタリー)からなる組織を軍隊というのだから、軍人ではない“文民(シビリアン)の自衛官”からなる自衛隊は軍隊ではない。自衛官に対するこれほどの侮辱はないだろう。「自衛官を軍人に」「自衛隊を軍隊に」昇格させ、国家の栄光と栄誉に包まれるようにすることは、我々日本国民が自衛隊に対して感謝を込めて果たすべき義務である。

国防は精強でなければならない。それには自衛官の地位を国内法上において正しいものにしておくことが絶対前提。それは、自衛隊を国防軍にして“建軍の大義”を憲法条文として旗幟鮮明に明記することに他ならない。第九条第二項に「国防軍を保持する」以外が条文となることは、日本が主権国家である以上、許されない。

安倍の害毒極まる憲法改悪をすれば、日本の国防力の強化と国防精神の再生の道が窒息する

現行の憲法第九条は、前述したように、憲法ではなく、敗戦国が戦勝国に約定させられた占領期間中に限っての「協定文書」である。このため、日本国が憲法第九条を全面無視しても、それは“法の支配”に反しないから、正当化される。

明文憲法の上位に君臨する“法”は、主権国家に国土防衛の精強な軍事力と軍隊の保持を認めているし、それを国際的義務だと国家に要請する。この“法”において、現行の第九条を死文化するのが“法の支配”の遵守ともいえる。つまり、現行憲法第九条のままであれば、一気に自衛隊を国防軍に昇格させて、自衛官も軍人に昇格させることができる。

ところが、もし“スーパーお馬鹿”安倍晋三のように、自衛隊を第九条第三項で規定すれば、それは第一項と第二項を日本が容認する法的行為であるから、日本国民が選択した憲法条項になる。自衛隊を国防軍にして、日本人が真に国を守る軍隊を保有するには、もう一度、憲法第二項の削除を本当にしない限り、それは叶わなくなる。

一言で言えば、極端に大欠陥のある外国製憲法条文ならば無視して死文に扱うことができるが、いったん出鱈目であれこの外国製憲法条文を日本国の国会と国民が触れば、それは“日本の生きた憲法”となり、日本国を拘束する。安倍晋三は、日本国から国防軍の保有をできなくする、主権剥奪状態を永久化しようとしている。日本国を我が子のように大切に扱ったGHQとは異なって、安倍晋三こそ、日本国を永遠に地球上から消滅させる、満洲や樺太に侵略したロシア軍のような“悪魔の外敵”の極みではないか。

 

※本エントリーは中川氏のブログ「中川八洋ゼミ講義」2017年5月9日記事の転載です。快諾いただいた中川氏とブログ管理者に心より感謝いたします。