以前「ノンママ白書」というドラマを時々観ていました。
印象に残ったのは、菊池桃子さん扮する、妻子ある男とばかり不倫していて婚期を逃した登場人物でした。
彼女は最近の婚活が実って条件のいい「佐藤さん」という人と結婚できそうです。女友達二人も大いに結婚を勧めます。
彼女が「でもね、彼ってときめかないの」と言うので、「それじゃあ、長年不倫相手をしてきた佐藤さん(同じ名字)にはときめくの?」と責められて「うん」と答えてしまいます。友達二人は「何をバカなことを言っているの!」とばかりに彼女を更生させようとします。
ここであなたに質問です。ときめかないけど安全な相手と結婚しますか?
それとも、ときめくけども結婚できない不倫相手と付き合い続けますか?
この問題は音が深く、かの夏目漱石も「行人」で悩んでいます。
小説の主人公長野一郎は大学教師で学者、妻の直と心が溶け合わず、直も苦しんで、あまり気むずかしくない弟の二郎にいろいろ相談していたので、一郎は二人の関係を疑います。一郎は二郎に対し(パウロとフランチェスカを例に出し)二郎を詰問します。
「二郎、だから道徳に加勢するものは一時の勝利者には違いないが、永久の敗北者だ。自然に従うものは、一時の敗北者だけれども永久の勝利者だ…」
「所が己は一時の勝利者にさへなれない。永久には無論敗北者だ」「二郎、お前は現在も未来も永久に、勝利者として存在する積だらう」
これは、実定法対「自然」という図式だと言われています。
「自然」は人間性に根差した永遠の効力をもつが、実定法は特定の時代、特定の社会でしか効力をもたない「道徳」のようなものだという捉え方ですね。
小説の中の二郎にとっては迷惑な話ですが、一郎は「二郎が直と自然の情で不倫の関係になり」「道徳に加勢するものに一時は敗北するが」「永久の勝利者になれる」と断定しているのです。いっときは道徳的・法的非難を浴びるけど、人間性に正直に生きたほうが永遠の勝利を得るという意味でしょう。
話を「ノンママ白書」に戻すと、菊池桃子さん扮する女性は、柳葉敏郎三扮する男性の「明日死ぬとしたらどうしますか?男は子作りをするのです(本当かよ!)…云々」という話を聞いて、不倫の佐藤さんに会いに行くことを決心します。ドラマではそのまま突き進まなかったのですが…。
あなただって明日死ぬとわかれば、「ときめく不倫相手」と最後の時を過ごすのではないでしょうか?
「でも、残りの数十年を考えると、ときめかなくとも条件のいい結婚相手と平穏な人生を送るよね」と考えているあなた! 自分があと数十年生きられるという保障は、実はどこにもありません。交通事故や病気で亡くなる人は日本だけでも毎日たくさんいます。いつ自分の番が回ってきても不思議ではありません。余命は神のみが知る、なのです。
経済学者であれば、(「自分の平均余命」✕「ときめく相手と過ごして得られる利益」−「結婚できない不利益や道徳的・法的非難」)からもたらされる効用と、(「自分の平均余命」✕「ときめかないけど条件のいい相手と過ごして得られる利益」)からもたらされる効用を比較して、大きい方を選びなさいと説くかもしれません(笑)
ただし、「ときめく相手と過ごして得られる利益」の限界効用は逓減し、「条件のいい相手と過ごして得られる利益」には(相手をよく知らない分)不確実性が大きいこともお忘れなく。
ま!確実なことは「余生が短くなったら好きに生きた方が効用が高い」ということなのでしょうね(^o^)
編集部より:このブログは弁護士、荘司雅彦氏のブログ「荘司雅彦の最終弁論」2017年5月15日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は荘司氏のブログをご覧ください。