先日、日中文化コミュニケーションの授業で、女子学生が「日中韓における敬語比較」のテーマで自由研究を発表した。日本語も韓国語も勉強したことがないので、表面的な比較しかできないのは本人も承知のうえで、研究の核心は、なぜこうしたテーマがネットなどで関心を持たれているのか、という問題提起だった。彼女の発表スタイルも、もっぱらクラスの仲間に問いかける形で進行した。
返答には様々なものがあった。
「王朝体制の厳格な身分制度の中で、官職に応じた礼による言葉の使い分けがあったが、共産主義が封建制度を打破して、みな平等の言語体系に変わった」
「中国語の敬語は主として、呼び名に現れる。特に親戚関係では細かい区別がされている」
「敬語が問題になるのは、敬語そのものよりも、伝統的な人間関係が崩れ、見知らぬ人たちがどのように接してよいかわからないからだ」
ぞれぞれ当たっている。だが、「隣の芝生は青く見える」ではないけれど、もう少し自分たちの言語環境を注意深く観察した方がいいのではないか、と私は口をはさんだ。
中国語は語尾が変化しない孤立語と呼ばれる体系なので、日本語のように相手や対象によって動詞や助動詞が変化することはない。敬意を表す言葉を前に置く「貴国」「貴社」や「拝読」「拝訪」、「奉命」「奉告」、「恭候」「恭迎」で尊敬を、また、「拙著」拙筆」、「愚見」「愚兄」で謙譲の意を示すことになる。さらに、「久仰大名(お名前はかねがねうかがっています)」「有何見教(お考えをお聞かせください)」などの慣用語もある。
だが、多くは文語表現で、日常的に用いる口語にはなかなか馴染まない。だから、アニメやドラマで目にする日韓の日常会話で、しばしば敬語が使われているのを見て、「礼節は中国から伝わったものなのに、なぜ自分たちは残っていないのか」との疑問が沸く。その気持ちもわからないではない。
では実際はどうか。学内ですれ違えば、知り合いの学生はみな、きちんと「老師好!」とあいつさする。キャリアの長い他の先生たちに聞いたところ、以前は見られなかった現象で、近年、学生のマナーが向上しているとのことだった。先生や職員たちの間でも、顔を合わせれば決まって、「加藤老師」などと名前を呼び合う。私は習慣的に「ニイハオ」とだけあいさつし、ばつの悪い思いをさせられることもあるほどだ。名前を呼ぶことは、マナーだけでなく、相手への親密さを示すことにもつながる。
逆に親しい仲で、相手の好意に対して不用意に「感謝!」などと礼を示せば、「なんでそんなに水臭いんだ」と叱られる。「こっちは当たり前のこと、してあげたいことをしただけなので、喜んでくれればそれでいい」というわけだ。謝罪する場合も同じである。「何を大げさなことを言っているんだ」と一蹴されてしまう。過剰な礼儀は、かえって人間関係への軽視につながる。こうした形式的な応対は、中身の伴わない表面的な「虚偽」として、敬遠される。「感謝」や「対不起」の言葉を不要とする間柄こそ、真の友人だという観念がある。
私が北京に留学していた80年代、外で道を尋ねたり、商店で店員を呼び止めたりする際のしきたりは、すべて「同志」の呼びかけだった。社会主義イデオロギーがなお濃厚な時代である。その後の急速な経済発展によって、「同志」は「ゲイ」の隠語に変化し、道端では「おじさん」「お兄さん」「お嬢さん」と声をかけるのが一般的なマナーとなった。前置きなしに、いきなり道を尋ねるのは無作法とみなされる。
目まぐるしい社会の変化によって、人間関係を規定する言葉も変わる。若者たちにはそのことへの不安、疑問、自省がある。一方で、猛烈な外来文化の流入にさらされている。指導者が「文化の自信」を叫べば叫ぶほど、中身のない空疎さばかりが目立つ。改革開放が一段落し、民族衣装の復活や、伝統文化の見直しにみなが目を向けるようになっている。敬語への関心も、そうした現象と軌を一にするものなのかも知れない。
「礼」の漢字をたどれば、「豊」にたどりつく。祭祀で用いる器の形である。確かに型がなければ、みなが共通に受け入れる礼にならない。ただし、型が固定してしまっては心がなくなる。中国語では、このさじ加減を「分寸」という。本を読んでも、ネットで検索しても出てこない。逆に、文章に固定してしまうと、型が独り歩きし、実態から遠ざかっていく。つかみどころがないだけに、探求する興味も沸いてくる。「分寸」がわからないと、自分たちの文化も、相手の文化も深く知ることができない。
編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年5月15日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。