憲法の「秘密コード」と日米「同盟の絆」~憲法9条解釈論その4

篠田 英朗

前回のブログで、日本の憲法学が「正義(justice)」に関する議論を避けてきたことを書いた。そしてアメリカ合衆国憲法の前文が「われら合衆国の人民は、より完全な連邦を形成し、正義(justice)を確立し・・・」という文章で始まっていることにもふれた。それはどういうことだっただろうか。もう少し踏み込んだ言い方で、補足をしておきたい。

憲法9条の目的は、「正義と秩序を基調とする国際平和」だが、それはGHQ起草の前文と結びついている。前文では、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しよう」という決意が表明されている。つまり日本国民は、「平和を愛する諸国民の正義(justice)と信義に信頼」をして、自らの安全と生存を保持することを決め、9条を定めた。

実は前文のこの部分は、非常に評判が悪い。他人の善意を信頼して非武装を掲げるという、非現実的なまでにお人好しの考え方に依拠した夢想的な規定だ、とみなされてきたからである。その背景には、9条を非武装中立主義の規定とみなす、日本の憲法学があった。

「平和を愛する諸国民」とほぼ同じ、「平和を愛する諸国家」、という表現が国連憲章に見られる。したがって「平和を愛する諸国民の正義」を信頼する憲法前文が、国連=連合国を信頼していることは、明白だ。だが、国連の集団安全保障は思うように機能していない。国連は日本を守ってくれない。したがって、憲法は非現実的だ(・・・けれども理想主義で頑張ろう・・・)、と語られてきた。

だが本当にそうだろうか。たとえば、国連憲章は、集団安全保障が機能しない場合には、51条にもとづいて個別的・集団的自衛権を行使できることを定めている。これにもとづいて世界中で発展したのが、集団的自衛権にもとづく安全保障の制度である。一部の血気盛んな憲法学者は、同盟ネットワークが、集団安全保障を破壊する、と論じる。しかし実際には、普遍的であるがゆえに実現が難しい集団安全保障を、地域的・部分的に実現して補足するのが、集団的自衛の安全保障ネットワークだ。

NATOや日米安全保障条約は、いわば地域的な集団安全保障の体制である。日本の憲法学者はこれを否定する。しかし国連憲章は否定していない。日本国憲法も、否定していない。地域的な集団安全保障、つまり根拠規定が集団的自衛権にあるような安全保障は、普遍的な集団安全保障と、連続性をもって結びついている。憲法から見れば、「平和を愛する諸国民の正義と信義に信頼して、自国の安全と生存を保持しよう」とする点では、全く変わりがない。

しかも「正義の確立」は、アメリカ人民が、合衆国憲法を制定した「目的」の一つとして、特筆しているものだ。日本国憲法が「信頼」する「平和を愛する諸国民」の筆頭国が、アメリカ合衆国である。合衆国憲法が確立する「正義」を、日本国憲法が「信頼」する、という論理構成が、そこに厳然と存在している。

これは何ら特異な解釈ではないはずだ。憲法制定当時、日本を占領していたのは、アメリカ合衆国である。憲法草案を起草したのは、アメリカ人たちである。そもそも憲法制定に至る太平洋戦争の終結は、300万余の日本人、10万余のアメリカ人の犠牲によって、もたらされたものである。いったい誰が、アメリカの「正義」を「信頼」することなくして、日本が自国の安全を確保できる、と夢想できただろうか。

合衆国憲法が、「正義を確立」する。日本国憲法が、「諸国の正義を信頼」し、自国の安全を保持する。これはアメリカ合衆国が主導して作成された国連憲章の論理構成であり、やはりアメリカ合衆国が主導し、日本の政策当局者が同意した、日米安全保障条約の論理構成でもある。

日本は、アメリカ合衆国などの諸国の「正義」を信頼して、自国の安全を確保していく。憲法は、アメリカによる占領統治下でそのように宣言し、実際に日本はその後70年間、アメリカ合衆国の「正義」を信頼して、自国の安全を確保してきた。これは今や解釈の問題ですらない。世代を超えて継承されてきた一つの現実である。

拙著『集団的自衛権の思想史』では、憲法9条を「表」、日米安保を「裏」とする「戦後日本の国体」を論じた。憲法9条が「顕教」、日米安保が「密教」である。拙著では、両者の「表裏一体」の関係を強調した。

「顕教」の論理は、もちろん憲法典そのものの中に表現されている。「密教」は、別の次元に存在しているとも言えるが、決して憲法と矛盾していない。むしろ整合している。その整合性を確保するのが、前文と9条における「正義」への「信頼」である。秘密裏に、暗黙の整合性が、この「正義」という語に隠されて、憲法典に挿入されている。

「正義」という語は、日本国憲法を合衆国憲法とてらしあわせることによって判明してくる「密教」の論理を内包した、「秘密のコード」である。そして70年間にわたる日米の「同盟の絆」が、表の理念ともしっかり結びついていることを示す「秘密のコード」である。

終戦直後の憲法学徒たちは、「justice」を「公正」と訳し(外務省仮訳時まで「正義」だった「justice」を故意に「公正」としたのは当時の内閣法制局の役人だ)、戦後憲法学で芦部信喜らがさらに「中立の立場からの平和外交」などと意図的に曲解した解釈を施して、日本国憲法の「正義」の「コード」を覆い隠す運動を展開してきた。

しかしアメリカ人によって起草された「日米合作」の「秘密のコード」が内包されているテキストとして日本国憲法を見るとき、むしろ憲法が全く逆のことを見ていたことが判明してくる。「表」側の憲法が、「裏」側の「密教」の「同盟の絆」を予定していたことに、気づかされることになる。

日本国憲法は、戦後平和構築の論理にしたがって、いわば「二重の社会契約」を達成するものであった。一つは、人民と政府の間の統治契約である。歪な権力構造が軍国主義を招いたという反省から、民主主義的抑制が政府に働くように調整した。もう一つは、日本と(アメリカが代表する)国際社会との間の国際契約である。歪な国際情勢の認識が帝国主義的拡張を招いたという反省から、国際的な規範的枠組みの中で日本が行動する国際協調主義を掲げた。

私は、戦後の日本で行われた平和構築の政策の体系を見れば、日本国憲法に「国際契約」の論理が内包されるようになったことは、当然だと思っている。憲法起草に携わったアメリカ人たちが、自国が国際社会を代表して「国際契約」をまとめ上げていると考えていたことは、自明だと思っている。日本国憲法前文に「諸国の正義を信頼して自国の安全を保持する」という論理を挿入したアメリカ人たちが、自分たちの国アメリカ合衆国の憲法が前文の冒頭で「正義の確立」を掲げていることを、つまりアメリカ合衆国こそが日本に信頼されるべき「諸国の正義」を代表する国だと考えていたことは、自明だと思っている。あとは日本人が、それを「信頼」するかどうかである。

かつて1951年の日本の主権回復時に「単独講和」と「全面講和」が争われて以来、ある意味で「諸国の正義への信頼」をめぐる論争が激しく長く続いた。憲法学では、その論争の余韻は、いまだ根強いようだ。「押しつけ憲法論」沈静化のために、憲法学はアメリカの影響をタブー視し続けている。だが意図は何であれ、憲法学の憲法解釈は、素直な憲法の読み方ではない。
今日のほとんどの日本人の間では、日米同盟体制の運用の方法をめぐる議論はありえても、同盟を「信頼」すべきか否かの議論はないように思う。「正義への信頼」こそが、日本国憲法の命である。従属ではない。相手が信義則に反する行為をとるならば、指摘すればいい。しかしそれも「信頼」があればこその話だ。

自民党憲法改正案をはじめとして、前文を書き換えて、9条を改正しようとする運動は、根強い。だが実はそれは、かえって憲法学の憲法典解釈に騙された結果である。9条を「目的」に沿って解釈し、前文で謳われている仕組みに沿って理解するべきだ。そうすれば、日本国憲法が70年にわたる日本の安全保障体制の現実を説明するテキストであることを、思い知ることになる。

日米同盟を妥当な政策と考えている者は、日本国憲法における「諸国の正義と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しよう」という「絆」の規定を、取り除くべきではない。前文で謳われている「正義」への「信頼」を取り除くのは、おそらく日米同盟を日本の国家政策の基軸から取り除く抜本的な改変のときだけだ。


編集部より:このブログは篠田英朗・東京外国語大学教授の公式ブログ『「平和構築」を専門にする国際政治学者』2017年5月16日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。