アベノミクスの次の政策として、何らかの形で教育をネタにした財政支出が出てくる見通しが強まってきたが、「大学無償化」はナンセンスだ。今の大学は研究者を養うために学生を食い物にするシステムであり、公的投資は正当化できない。
話題になっている「こども保険」は単なる社会保険料の上乗せで、サラリーマンだけが負担する不公平な所得増税だが、「子育て支援」には意味がある。その財源は、国立大学法人への国庫補助と私学助成の1兆5000億円を転用すればいい。
大学の機能として重要なのは職務能力のスクリーニングであり、これは入試でほとんど実現するので、4年間の教育は無駄である。中国には科挙という形で、全国民(ただし男性)から高級官僚を選抜するスクリーニング制度があった。
科挙は中国の衰退した原因と思われているが、宋代から明代まで500年ぐらい、地域を超えて統一国家を形成し、エリートが国家を統治する合理的な官僚機構だった。受験科目は四書五経の暗記で無意味だったが、漢字を読む文書管理能力をみる試験としては役に立った。
科挙は年齢不問であり、合格者の平均年齢は30代だったという。合格するのは1万人に1人ぐらいだったが、地方段階の「郷試」に受かっただけでも地方公務員になれた。学歴も不問だったが、10歳から受験できる「童試」の予備校が繁盛した。
日本の司法試験も、昔は学歴不問の科挙のようなシステムだったが、文部科学省が改悪して法科大学院をつくって大失敗した。これは逆で、医師も弁護士も国家試験というスクリーニング装置があるのだから、大学や大学院というコストのかかる非効率的なシグナリング装置は必要ないのだ。
もっと割り切れば、中卒以上は誰でも受験できる科挙のような一般資格試験に一本化し、社会人でも受験できるようにすればいい。新しい大学入試の共通テストではTOEFLなどに外注する方向らしいが、この一般資格試験もSPIに外注してもいい。もちろんこれは公務員試験ではなく、民間にも使えるように多様な科目を組み合わせればいい。
大学入試が無意味だから「人物本位」にしようというのは逆である。面接でペラペラしゃべるcheap talkはコストがかからないので、口先だけで仕事のできない受験生が合格する確率が高い。もっと信頼できるスクリーニングは可能だ。SPIとTOEFLを組み合わせて数学の試験を加えるだけで、今の私立文系の入試よりましになるだろう。
結果がすべてだから、学位も卒業資格も必要ない。「新しい科挙」という目的がはっきりすれば、今の塾や専門学校のように多様な教育機関の競争が起こるだろう。社会人も受験可能だから、少子化で衰退することもない。雇用を流動化し、社会人が何度でも資格試験を受験できる社会にすることが、高齢化対策としても有効だ。