批判に対案なんて要らないよねって話

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この記事が相変わらず拡散している。

経産省若手官僚レポートは、ズルい 霞が関ポエムに踊らされてはいけない(常見陽平) – Y!ニュース

URLをTwitterでエゴサして頂くと分かると思うが、一定の割合(2~3割くらい?)の批判コメントがあり、それが例によって「批判するなら対案を出せ」というものだった。こういうこと言う人が、今後、恥をかかないために、あるいは社会や会社の暴走を許してしまう愚に走らぬために、忠告しておこう。「批判するなら対案を出せ」というのは相手を黙らせる常套句であり、恥ずかしいのだ。

いや、国会なら分かる。社内の会議だったらわかる。しかし、意見のやりとりの時にこれを言うのは愚の骨頂である。いつの間にか、独裁者を容認してしまっている。、知的な議論をする上で、正しいようでマナー違反であり、大変に失礼であり、自分が知的ではないと言っているようなものなので、やめた方がいい。

社会に対して、第二、第三の視点を提供するのが知識人の仕事だ。いや、知識人じゃなくても、視点を提供することが大事なのだ。そのため、対案があろうがなかろうが、「これはおかしいのではないか」「こんな見方もあるのではないか」という視点を提供することには意味があるのだ。

「対案を」という人は、実は議論するとか、もっというと思考するという行為を放棄している。世の中はA案かB案かについての二者択一ではなく、それを吟味していく必要がある。たとえ、A案に賛成せざるを得なくても(あるいは、多数派の論理でそのA案が選ばれるのが決まっていても)、そこに批判を加えることが意味があるのだ。

その批判や指摘の仕方が雑だとしたら、それはそれで問題だ。いい加減な誹謗中傷には意味がない。ただ、問題点を指摘する際に、対案があるのかどうかは関係ないのだ。

今回の件で言うと、対案云々の前に、若手官僚の仕事は雑だった。アカデミックな世界ではもちろんのこと、たとえお役所仕事だったとしても、データの使い方などが雑だ。対案があるかどうか以前に、まずこのレポート自体に問題があるのではないかと警鐘を鳴らすことは必要だ。そもそも、この荒唐無稽で笑止千万の妄言に対して、対案がないと何も言えない社会はおかしくないか?

対案を出す難易度も上がっている。なんだかんだいって自民党が強いのは、政策のマーケティング化を行っているからであり、左右関係なく、節操なく利害関係を取り込んでいるし、一方で、この道を選ばざるを得ないこともあるのではないかという部分もあるのだろう。しかし、その問題点を言い続けることによって、対案がなかったとして、もともとの案が軌道修正されることはあるわけだ。

そうそう、「ポエムだと批判するこれもポエム」というコメントを見かけたが、知性、教養が欠如した方なのだと思う。ポエムではない。檄文だ。この手の批判をした人は、いますぐタクシーをとめて、書店に行って三島由紀夫の本を文庫で良いから最低3冊買いなさい。


ついでに私の本もな。

この本は対案のようなものを詳しく書いているわけではない。ただ、問題を具体的に論じること、新たな視点を提供することはできていると思う。

対案、対案って言う奴は、パチスロや競馬に行くのは大安の日だけにしとけよ。


編集部より:この記事は常見陽平氏のブログ「陽平ドットコム~試みの水平線~」2017年5月22日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。