さようなら“ミスター・ヨーロッパ”

“ミスター・ヨーロッパ”と呼ばれたアロイス・モック(Alois Mock)元外相が1日、死去した。82歳だった。1987年から1995年の間、アルプスの小国オーストリアの外相を務めた。パーキンソン病の治療のため政界から引退後は公の場に姿を見せることがほとんどなかった。

▲アロイス・モック元外相

▲アロイス・モック元外相

オーストリア国営放送は同日夜、プログラムを急きょ変更し、モック氏の追悼番組を流した。

▲オーストリアとハンガリー間の“鉄のカーテン"を切断するホルン・ハンガリー外相(当時、左)とモック・オーストリア外相(当時、右)=1989年6月27日、両国国境で撮影

▲オーストリアとハンガリー間の“鉄のカーテン”を切断するホルン・ハンガリー外相(当時、左)とモック・オーストリア外相(当時、右)=1989年6月27日、両国国境で撮影

モック氏の政治家としての活動では3点、大きな節目があった。

①1986年、クルト・ワルトハイム元国連事務総長を国民党の大統領候補者に擁立した。ワルトハイム氏の戦争犯罪問題も絡んで激しい批判を受けながらも、同氏を大統領(任期1986年7月~92年7月)に当選させた。

②1989年6月、モック氏はハンガリーのホルン外相(当時)と共に両国間の“鉄のカーテン”を切断し、旧東独国民の西側亡命を促進させ、ベルリンの壁の崩壊を加速させた。冷戦終焉の功労者の一人だ(ハンガリーの『動乱60周年』と国境」2016年10月20日参考)。

③オーストリアの欧州連合(EU)加盟交渉の最前線で活躍し、1995年1月に加盟を実現。国民からミスター・ヨーロッパという呼称を受けた。

モック氏は10年間、国民党党首を務め、87年からは外相を務めた。モック氏は外国人記者の当方にとっても忘れることができない政治家だ。外相時代に数回、単独会見に応じてくれた。
外相時代のモック氏はフラニツキ―首相(当時)を凌ぐほど国民的人気があり、国の顔として東奔西走の日々を送っていた。特に、オーストリアのEU加盟交渉ではモック氏はウィーンとブリュッセル間を頻繁に往復する生活だった。同国のEU加盟が決まった日、モック氏は子供のように喜んでいた。

社会党(現社会民主党)が政権を主導し続けてきたオーストリアでは、EU加盟には否定的な声が久しく支配的だった。それを克服して同国をEUに加盟させ、今日の経済的発展の基盤を築いたのは、社会党の政権パートナー、国民党党首のアロイス・モック外相(当時)だった。モック外相の存在なくして、果たして同国のEU加盟は実現していたであろうか。中立主義を掲げるスイスと同様、オーストリアはEUの域外に留まっていたかもしれない。

オーストリア日刊紙プレッセは「モック氏はわが国のEU加盟実現の代償として自分の健康を失った」と述べていた。激務もあって、パーキンソン病は進行したことが明らかになった。
与党国民党の名誉党首時代、当方は議会内の国民党幹部室でモック氏と会見した時、同氏は返答にかなり時間がかかった。そのうえ、その返答内容は聞き取りにくかった。揺れる体を必死にコントロールしながら絞り出すように語るモック氏の姿は痛々しかった。
モック氏が外相を辞任する時、ウィーンの外務省内でお別れ記者会見が開かれた。モック外相が最後の記者会見で、「私に付き合ってくれてありがとう」と別れの挨拶をすると、参加した記者たちから大きな拍手が沸き起こった。記者たちが記者会見で政治家に拍手するなど過去になかったことだ。それだけ、記者たちも、夢を持ち、その実現の為に全力疾走した一人の政治家の姿に感動を覚えたからだろう。

エディト夫人とは1963年に結婚して53年間、二人三脚で歩んできた。子供はいない。夫人が作る甘いケーキが大好物という。夫人はオーストリア日刊紙クリアとのインタビューの中で「私たち2人は常に一つのチームだった」と述べていた。

バン・デア・ベレン大統領はモック氏の死去を悼み、「彼はわが国のEU加盟の父であり、偉大なヨーロッパ人だった」とその功績を称える一方、病に倒れたモック氏に常に随伴してきたエディト夫人を称賛することも忘れなかった。

欧州では、英国がEU離脱を決定し、難民問題で加盟国間の結束が緩む一方、ポピュリズムが席巻してきた。EUは21世紀に入り、大きな試練に直面している。そしてオーストリア国民はミスター・ヨーロッパを失った。モック氏の冥福を祈る。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2017年6月3日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。