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ビッグ・データ時代を迎え、ジャーナリズムの現場でも、各種データを駆使した報道の可能性がしばしば論じられる。その際、私はしばしば、中国の国内総生産(GDP)成長率に関する報道を引き合いに出す。中国に関しても豊富な経済データが蓄積されているにも関わらず、日本メディアは全体の平均値に過ぎない数字にすがりつき、旧態依然とした思考回路しか持ち合わせない。手っ取り早く色眼鏡にかなったニュースを引き出すことにしか関心がない。
このテーマも前回触れた「中国とは何か」にかかわる。14億人56民族の人口を抱え、面積が日本の25倍にのぼる国をどのようにとらえるか。その心構えが試されている。一億総中流時代の記憶から抜けきれない発想で、この国をとらえようとしても到底無理だ。国と地方という概念自体が誤解のもとなのかも知れない。中国の地方はヨーロッパの一国に匹敵する規模を持ち、地方間の文化格差は、言葉が通じないほどだ。
日本の特派員は付け焼刃的に中国語を勉強し、ろくに中国のなんたるかもわからず、歯車として送り込まれている記者が多い。取材対象に対する深い理解もなく、愛着もない。3年前後の任期を大過なく過ごし、また舞い戻ってくるチャンスを残せればいいと思っている。これで読むに堪え得る記事が書けるはずはない。
2016年のGDP成長率は、物価上昇分を除いた実質で6.7%だった。日本では、色眼鏡に応えるべく、前年比0.2ポイント下がったことに焦点が当てられ、中国の成長減速を下敷きにすることで、場当たり的な記事を作る。だが、この数字そのものにどんな意味があるのか。この国の多様性を想定したうえでの考察はまったくない。
私の授業では、全国GDPの背後に隠された実態に目を向ける。個別の地域をみれば、GDP成長率がなお8%以上の省は12に及ぶ。重慶、貴州、チベットは二ケタ成長を続けている。停滞しているのは国有企業を多く抱えた地域、具体的には重工業地帯の東北三省や石炭に依存する山西省などだ。もはや公的支援では立ち行かなくなっていることを物語る。GDPのトップは広東省だ。一人当たりGDPでも1万ドルを突破している。
金融危機の際、広東省では外資を含む多くの工場が閉鎖、倒産に追い込まれた。国有企業は政府が供出した4兆元で生き延びたが、今やその明暗が逆転している。市場の競争を生き延びた南方の企業の復活は目覚ましい。広東省仏山などの経営者は、これからどんどん発展していくと鼻息が荒い。過剰在庫と負債を抱えた国有企業とは、大きな違いだ。いくら平均値のGDPや成長率をいじりまわしても、こうした地方の実態はまったく見えてこない。
一党独裁によって中央の政策が地方の隅々にまで行き渡っていると、北京の特派員たちは勝手に思い描いているが、とんでもない。あるいはそう思わないと、原稿を書くのに不都合だと判断しているのかも知れない。中国には一人っ子政策という産児制限があるが、私の住んでいる潮汕地区は子だくさんだ。特に男児がいなければ家が存続できないと考えているので、男尊女卑が徹底している。
法は家族を守ってくれない。だから身内の掟を作る。一枚の法律が伝統の力に対抗できるはずはない。為政者の苛政に抵抗し、身を守ってきた家族の歴史がある。文化大革命時にも、人々は目を盗んでご先祖へのお参りを欠かさなかった。権力も、そこまで踏み込めば地雷を踏み、倍以上の反作用が降りかかってくることを知っている。阿吽のさじ加減が存在している。
人間に対する理解は、その中に身を投じなければわからない。冷房のきいた北京のオフィスに腰かけながら語る「中国」には、いかなる真実もない。
改革開放がどのように始まったかを考えればよい。習近平総書記の父、習仲勲が広東省党委書記として赴任し、鄧小平に「独立王国にしてくれ」と権限の委譲を求めたことが土台にある。地方の分権志向、独立志向を理解しないと、この国の発展は読み解くことができない。文革で荒廃した国土を救うための切り札として、なぜこの地が選ばれたのか。それを説明できないまま、記者たちはしたり顔で、改革開放の光と闇を作文している。
既成概念を打ち破るにはこの地しかない・・・指導者たちはこう考えた。もちろん、失敗したら、地方の責任にとどめればいいとの計算もあった。だから国家経済を支えていた上海は、候補から外された。地方の多様性は、全体の微妙なバランスと不可分であることを見失ってはならない。だから単色の色眼鏡ではない、複眼が必要なのだ。
(続)
編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年6月6日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。