「自由」について問い続ける中国の学生③(完)

身辺で起きた小さなニュースを通じて社会を語る、という期末課題を出したところ、複数の学生が、宿舎のカード管理問題を取り上げた。中国の大学はほぼ寄宿舎制だ。ある旧式の宿舎棟では従来、管理人が出入りをチェックしていたが、今学期からカードの認証が必要となった。そこで不満が噴出した。宿舎外の学生が自由に行き来できなくなったことに加え、決定が一方的で、学生の意見を尊重していない、という主張だ。

そこで、自由とは何か、という根源的な問いかけがされる。

最新式の「書院」と呼ばれる香港スタイルの宿舎は、キッチンからランドリールーム、フィットネスまでが完備し、専門の生活指導教師まで配置されている。書院単位のレクリエーションや公益活動もある。古い宿舎は徐々に書院式に切り替わっている。インフラの完備は、管理の強化も意味する。宿舎の出入りはカード式で、帰宅時間が記録され、門限のオーバーは後日、指導がある。運動会も書院単位で参加するのだが、各人の出欠がチェックされ、それが奨学金給付の参考資料となる。書院の過剰な管理は昨年、学内メディアで議論にもなった。

学校側は安全管理、多様な学生生活、引きこもり学生への対応を理由に掲げる。学生側は自由、手続きの公正を訴える。同じテーブルに腰かけた議論が続いているうちはいい。だが、クラスの学生が期末課題で問題提起した内容は、かなり深刻だ。

「学生たちはチャットでは不満をぶちまけるが、きちんと正規のルートで管理者に意見をとい伝えることをしていない」
「宿舎には学生会が存在するが、会長の選挙などにほとんど関心を払ってこなかった。みなの意見をまとめて力を発揮することをしていない」
「結局、学生たちはカードをやりくりして、うまく対応している」

興味深いエピソードを明かす学生もいる。以前、大学側が新たな管理案を提示した際、学生側から強い異論が出た。大学側が譲歩し、学生に自主規定を作らせたところ、元のよりもっと厳格なルールができてしまった。だが、肝心なのは結果ではなく、過程、手続きではないか。カード式入室についても、十分なやり取りがあれば、問題は大きくならなかったように思える。実際、学生会には事前に諮られていたが、それが学生全体に共有されていなかったのが実態なのだ。

自由は主張するだけでなく、参画しなければ実現できない。ネットで無責任な匿名の書き込みがまったく説得力を持たないのと同じだ。面倒だと思ったら、それは精神の奴隷になることを意味する。為政者はまず難解な文字を独占することで人々を統治した。現代は複雑なルールや見えない行政裁量、巧妙な世論操作によって人々の言動をがんじがらめにする。

一方、技術の進歩は人々に自由を表明する多様なツールをもたらしてもいる。もしそれを生かさなければ、結局、宝の持ち腐れどころか、支配される道具に転化するしかない。

辛抱強く、自分たちの自由や権利を守る試みをしてみればどうか。この問いかけに返ってきた言葉は、「果たしてどれだけ意味があるのかを計算してしまう」だ。大学生活で一番大事なことは、よりよい就職の条件を身につけることだ。多少、生活で不便な不都合なことがあっても、そのために大きな労力を費やすのは割に合わない。個人の問題ならともかく、みんなのためにという動機が存在しにくい。

生活が豊かになって権利意識は高まったが、それはもっぱら経済的な権利に集約され、政治的権利の要求はむしろそれに飲み込まれている。功利主義が自由を侵食するとはこのことだ。金があれば子どもは小さい時から海外で教育を受けさせようと考える。窮屈な詰め込み式教育に追い立てられる不安も、言論の自由について思い悩む心配もない。ではこのままいくとどうなるのか---。

少なくとも、米国で学ぶ中国人留学生の卒業式スピーチはもはや常態化し、物議をかもすケースはなくなるだろう。そして、そうした若者たちがドッと中国に戻ってくる。そして自分たちが親になる。さぞ先生たちはやりにくいだろう。大学の管理も大きな影響を受けざるを得ない。そのころには政治指導部にも欧米留学組が誕生しているに違いない。

このぐらいのスパンで考えないと、この国の先は見えてこない。だからといって現状と妥協するわけにはいかない。この国の社会は様々な可能性と不確実性を秘めた多様性も持っているからだ。

(完)


編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年6月14日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。