村上ファンドを抹殺した日本社会:『生涯投資家』

新田 哲史
生涯投資家
村上 世彰
文藝春秋
2017-06-21

 

「数日以内に村上世彰が逮捕されるらしい」。2006年6月1日昼過ぎのことだった。読売新聞入社7年目の私は、地方支局、整理部勤務を経て、社会部に配属されたその日、村上ファンド事件取材班にいきなり組み入れられた。著者が、ライブドアのニッポン放送株取得を巡るインサイダー取引容疑で逮捕されたのは、この4日後のことだった。

取材班では「村上容疑者」の人物像を洗う担当となり、付き合いのあった経営者や投資家らを取材して回った(記者時代であれほどの豪邸巡りは後にも先にもなかった)。日本社会では異端な「物言う投資家」の道を歩むことになる著者の人格を形成したものは何だったのか、11年経った今でも関心は尽きない。

その当時、取材を通じて見えてきたことが2つあった。著者は「日本の社会を変えたかった」などと国家観の一端をのぞかせる発言をしていて、ただのアクティビスト(物言う株式)ではないと当時から感じていたが、1つには、大学卒業後すぐに投資家の道に進まず、経産官僚として16年奉職した経験は影響しているだろう。

そもそも、官僚を目指したのは「国家を勉強するため」という父の勧めだったという。そのもう一つ、人格形成に影響してきたのが、まさに台湾出身の貿易商である父・勇氏(日本国籍取得)の存在だった。著者が小学生の時に今後小遣いを貰わない代わりに、父から渡された百万円で投資デビューした「伝説」は有名だが、本書でも「投資家の資質の3割はDNA」と述べるように、その“華僑”的ともいえるセンスを幼少期から叩き込まれたからこそ、日本的な空気を読まず、本邦初の敵対的TOBなどの真っ向勝負を挑む気質を得たのではないだろうか。

官僚時代に米国型のコーポレート・ガバナンスを研究した著者は、オリックス宮内義彦社長らの支援を得て“村上ファンド”(M&Aコンサルティング)を創業。株式市場に彗星のように登場し、やがて株式市場の枠を超え、日本社会の台風の目になる。

しかし、堀江貴文氏からニッポン放送の買収構想の一端を、事前に聞かされていながら同社株を買い増したとして、検察当局にインサイダー事件で逮捕・起訴され、失脚したのは周知の通りだ。

事件当時の私は、なにか釈然としないものを抱えながらの取材であったが、著者本人がいまなお「単なる『村上バッシング』だったのではないか」と率直に語っているのが印象深い。

堀江氏からニッポン放送買収の構想を聞いた時点のライブドアの財務状況からは、現実味に疑問符がつく段階だったとしている。ライブドアがリーマンブラザーズを割当先とする800億円のMSCBで資金調達し、敵対的買収をするのは著者の予想外としているのは「ポジショントーク」の可能性もあるが、逮捕直後には朝日新聞の大鹿靖明記者も『AERA』誌上で「村上無罪」説を書くなど、一部で疑問視する見方は確かにあった。

しかし大半の事件報道は、企業経営や株取引のイロハもわからない社会部記者とワイドショーによるバッシング一色に染まった。同時期に摘発された堀江氏と同じくスケープゴートにされ、著者が本来提起したかった、欧米より周回遅れの日本の資本市場や企業経営の構造的な問題が検証されることはなかった。

著者は、その突破力で日本市場の構造にメスを次々に入れようとしたが、いま思えば、日本社会に遍在する「異端排除」のメカニズムの恐ろしさを見誤っていた。池田信夫が近著『失敗の法則』で指摘するように、日本の会社経営は、良くも悪くも天皇(株主)と将軍(経営者)とに権力が分流する意思決定文化を反映し、現場の発言力が強い。著者が振りかざしたような米国型の企業統治は「株主→経営者→従業員…」という、美しい上意下達モデルでは発揮しやすいが、織田信長のような強いリーダーを排除する国民性を内在した日本型資本主義とは、すこぶる相性が悪い。

本書を読んで思い出したが、阪神鉄道の再編計画時にタイガースの上場プランをぶち上げた時の「炎上」に、その後の転落の予兆はあった。球界きっての人気球団の株を地元企業やファンが持って、地域の資産化を進める発想は欧州サッカークラブなどの事例はあるが、あまりに急進だった。このときは、スポーツメディアを不毛に騒がせ、虎ファンや星野仙一氏らを不快にさせた程度で済んだが、日本のエスタブリッシュメントの本丸でもある放送業界に切り込んだことで、本物の“虎の尾”を踏んでしまった。

いまはシンガポールに拠点を移してしまった著者だが、コーポレート・ガバナンスを提唱してきた根底には、日本企業の収益力を向上させ、資金を循環させ、国の経済全体を活性化させるとの信念があるからだ。近年深めてきたソーシャルビジネスとの意外な関係に小さな驚きもあるが、事件から11年、国家的視点を持った大物投資家の独白に、日本社会は少しは耳を傾けるようになってきたのだろうか。