ローマ・カトリック教会の代表的保守派聖職者、ヨアヒム・マイスナー枢機卿は今月5日、療養先のバード・フェシング(Bad Fussing) で死去した。83歳だった。バチカン法王庁内で改革派と保守派の熾烈な闘争が展開されている時、保守派代表の一人、マイスナー枢機卿が亡くなったわけだ。
独ケルン大聖堂で15日、マイスナー枢機卿の葬儀ミサが挙行された。主礼はケルン大司教区のヴェルキ枢機卿、ミュラー前教理省長官やフランシスコ法王の法王公邸管理部室長秘書のゲオルグ・ゲンスヴァイン大司教ら教会関係者や政治家たちが参席。ハンガリー教会最高指導者ペーテル・エルドー枢機卿が追悼礼拝をした。
マイスナー枢機卿は1933年、ブレスラウで生まれ、62年に神父、75年にエルフルトで補助司教に、1980年にヨハネ・パウロ2世からベルリン大司教区の大司教に、83年に枢機卿に任命された。マイスナー枢機卿は89年2月、ケルン大司教区の大司教に就任。75歳を迎えた時、教会法に従って辞職を申し出たが、当時のローマ法王ベネディクト16世の要請で職務を継続してきた。
ケルン大司教区のマイスナー枢機卿の後継者、ライナー・マリア・ヴェルキ 枢機卿は、「マイスナー枢機卿は常に神を中心に置き、それ以外はどうでもよかった。その言動、政治的、社会的見解も常にキリスト教の教えを中心に置いていた」と述べている。マイスナー枢機卿はその言動には揺れのない聖職者だった。
フランシスコ法王は2016年4月8日、婚姻と家庭に関する法王文書「愛の喜び」(Amoris laetitia)を発表した。256頁に及ぶ同文書はバチカンが2014年10月と昨年10月の2回の世界代表司教会議(シノドス)で協議してきた内容を土台に、法王が家庭牧会のためにまとめた文書だ。その中で、「離婚・再婚者への聖体拝領問題」について、法王は、「個々の状況は複雑だ。それらの事情を配慮して決定すべきだ」と述べ、法王は最終決定を下すことを避け、現場の司教に聖体拝領を許すかどうかの判断を委ねた(4人の枢機卿、『法王文書』へ質問状」2016年12月17日参考)。
その時、マイスナー枢機卿は他の3人の枢機卿と共にフランシスコ法王宛てに書簡を送り、離婚・再婚者への聖体拝領問題で法王の見解はキリスト教の教えに反していると抗議し、バチカン法王庁内で大きな物議を巻き起こした。法王に間違いを諭したのだ。
ドイツで中絶問題が話題になった時、枢機卿は神の与えた命の尊さを強調し、反対した。聖職者の独身制廃止、女性聖職者の任命問題、安楽死問題でもキリスト教の教えに反するとして強く反対してきた。マイスナー枢機卿は欧州のキリスト教社会の代表的な保守派論客だった。
同枢機卿が最も嫌ってきたことは、「時代の流れに迎合した言動」だった。枢機卿にとって、カトリックの伝統的な教えが全てだった。そこから離れるような言動には激しい抵抗があったのだろう。
信念に生きた枢機卿の歩みは一貫性があり、すっきりしていた。世の中の風潮に媚びない潔さは文字通り、保守派論客の風格すら感じさせた。
しかし、それだけでいいのだろうか、という思いが出てくる。例えば2000年前のイエスの教えはユダヤ教社会では異端だった。安息日に悩む人を癒すイエスを咎めたユダヤ教指導者の姿を思い出してほしい。彼は非情で頑迷な指導者ではなく、ひょっとしたらマイスナー枢機卿のように、ユダヤ教の教えを絶対視する真摯な宗教指導者だったのではなかったか。
だから、というべきか、それゆえに、と表現すべきか迷うが、ユダヤ教指導者たちはイエスの教え、福音に躓いてしまった。ユダヤの律法を絶対視する信仰深い人々であったゆえに、イエスを理解できず、最終的には十字架に追いやってしまったわけだ。イエスに従った人々、弟子たちの多くは教養のない、社会的には下層の人々だった。モーセの律法すら知らない人々だったという。
マイスナー枢機卿を批判する気持ちはない。彼はイエスの御言葉とカトリックの伝統的な教理を死守する信仰深い指導者の一人だったと信じるからだ。
問題は、時代が実際、変化する時だ。神は預言者、指導者を必ず送り、時の印を告げると述べている。イエス自身が終末の時の訪れについて、「無花果の木からこの譬えを学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことが分かる」と象徴的に述べている。すなわち、時の印だ。
キリスト教神学を構築した聖パウロの話を少し思い出してみる。サウロ(改名前)は熱心なユダヤ教徒だった。ナザレのイエスの教えを信望するキリスト信者を弾圧することを神のみ心と考えてきた。サウロはキリスト者を迫害するためにダマスコへ向かう途上だった。その時、十字架で殺害されたイエスが突然出現、「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」と問い詰める。激しい光を受けたサウロは目が見えなくなってしまった。アナニアというイエスの弟子がサウロのために祈るとサウロの目から鱗のようなものが落ちて、目が見えるようになった。復活したイエスを目撃したサウロは回心し、敬虔なイエスの弟子となった。サウロはパウロに改名し、世界の宣教に向かう。
次に、宗教改革者マルティン・ルター(1483~1546年)の話だ。ルターが当時のローマ・カトリック教会の腐敗を糾弾し、「イエスのみ言葉だけに従う」といった信仰義認を提示し、贖宥行為の濫用を問いかけた「95箇条の論題」を発表してから今年10月で500年目を迎える。ルターは「教会は刷新しなければならない時を迎えている」と信じて立ち上がった聖職者だった。
21世紀に入り、時は激しく動き、大きなうねりとなって流れてきた。マイスナー枢機卿にはサウロやルタ―のような出会いはなかったのだろうか。枢機卿はカトリックの教義を死守しながら生涯を終えた。新しい神の言葉を見いだせない以上、カトリックの伝統的な教理にしがみ付く以外に道がなかったのかもしれない。保守派の論客、マイスナー枢機卿の死は少々、心が痛い。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2017年7月17日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。