私にとっての読売新聞とは②

前川喜平・前文部科学事務次官に関する読売新聞の「出会い系バー」報道と、その批判にこたえた社会部長名の釈明記事が、世間の読売バッシングに火をつけた。世界一の発行部数を誇り、自民党政権にすり寄る憲法改正論議などで世論をリードする新聞社に対しては、かねてから多くの人がフラストレーションを抱えていたが、それが着火点を得て、爆発した感がある。

この一件では前川氏が、読売報道を「官邸の関与があった」と批判し、ジャーナリズムと権力の距離を問う議論にまで発展した。読売新聞と自民党政権のなれ合いは今に始まったことではない公然の秘密だが、具体的な事件として表面化し、政官を巻き込むスキャンダルにまで発展した例はない。原則論に立てば、権力からの独立は報道機関の生命線である。まして社会部は伝統的にその主な担い手であり続けた。それが瓦解した点において、日本メディア論としても重要な意味を持っている。

新聞社には、ジャーナリズムの根幹である独立性に対し社会から向けられた疑念を晴らすべき責任がある。型通りの免責論理によって報道を正当化するだけでは不十分で、多くの人々が納得できるよう、取材経緯を公表しなければならない。それは知る権利の使命を帯び、言論の自由を体現すべき報道機関としての責務である。もっとも、まだジャーナリズムの気概を持っていればの話だが、強弁を続ける読売新聞に自浄作用を期待するのは至難だ。

読売新聞の「出会い系バー」記事は特ダネだった。読売の特ダネに対するハードルは極めて高い。これは、私が身をもって知り、辞職の理由にもつながった現実である。真実性はもちろんのこと、社会的影響や各方面からのリスクを十分吟味し、誰からも文句をつけられない、という水準までに達しないと紙面には載せない。業界全体のパイが減り続ける中、攻めよりも守り、点を稼ぐよりも失点を恐れる体質が根付いている。リスクのある特ダネよりも、マイナスにつながる特落ちを避ける守勢が支配的だ。

私は在籍中、編集幹部が「特ダネは書かなくてもいいから、訂正は出すな」と平気で口にするのまで耳にした。誤報防止の厳格審査プロセスと言えば聞こえはいいが、無理難題を吹っ掛け、原稿をボツにする口実と化しているケースもしばしばある。変革よりも現状維持で精一杯なのだ。みなが責任を問われるのを恐れ、戦々恐々としている。リスクを限りなくゼロにすれば、何もしないのが得策だという思考に至る。

だからこそ、明らかに物議を醸すに違いない記事が掲載されたことに疑問を抱かずにはいられない。問題の「出会い系バー」記事は、前川氏への個人攻撃を通じ、国民が関心を持っている事柄から目をそらせる効果を持つ。明らかな政治的意図を持ったものだと誤解されるリスクが高い。結果的に読売新聞は大バッシングを受け、部数を大幅に減らしたと聞く。通常行われている厳格な記事チェックのプロセスを踏めば、当然、見送られてしかるべき記事だ。内容からしても、大手新聞社がふだんから見下している週刊誌ネタに属する。

厳格な記事審査プロセスとは対照的に、いかにも不用意な印象はぬぐえない。初歩的な判断ミスと言われてもしかたない。だから、最初の特ダネも、社会部長の釈明も、厳格な原稿審査プロセスを経たものではなく、それぞれ筆者が自発的に書いたとは思えない。そこには読売新聞を貫くもう一つの独裁的な意思決定システムが存在しているとみるべきだ。硬直化した上意下達の意思決定プロセスに従って書かされたのだ。

(続)


編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年7月31日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。