辛い経験をするとその後、その後遺症に悩まされるものだ。イラク戦争に参加して帰国した米軍兵士たちにみられる心的外傷ストレス障害(PTSD)はその典型的な例だろう。戦場で多くの死体を見てきた人間は日常生活に容易に再統合できないのだ。
同じようなことが北朝鮮の金正恩労働党委員長にも言えるかもしれない。父親・金正日総書記から政権を継承した直後、叔父・張成沢(当時・国防委員会副委員長)が金正恩氏を追放する計画を中国当局と画策していたことが発覚。金正恩氏は2013年12月13日、叔父を射殺すると共に、親中国派の幹部たちを次々と粛清していったことはまだ記憶に新しい。粛清はまだ終了していない、今なお、張派と思われる幹部たちは恐れ戦きながら生活している。
国際社会の対北制裁が成果を発揮できない最大の理由は中国の制裁が甘いからだと言われてきた。トランプ大統領は北の第2回目の大陸間弾道ミサイル(ICBM)発射直後、「中国は口だけで何もしていない」と不満を吐露し、中国の対北制裁が十分でないことを強調したばかりだ。
問題は、中国だけの責任ではないことだ。金正恩氏が中国を嫌悪し、憎しみをもっているからだ。中国の言いなりになる気持ちなどないのだ。だから、中国の警告や中途半端な制裁では北の核・ミサイル開発を中止できないのだ。
金正恩氏をそこまで中国嫌いにした主因は、張氏と連携して正恩氏を追放し、できれば親中国派の金正男氏を担ぎ出そうとした中国指導部のクーデター計画だ。金正恩氏はそれを知り、キレたのだ。もはや中国を当てにできないという教訓を得たわけだ。
独裁者の悪夢は軍のクーデターだ。国軍の最高指揮官であるが、軍の一部が自分を暗殺し、その権力から追放するのでないかという懸念だ。トルコのエルドアン大統領はその懸念を実体験したばかりだ。未遂に終わったクーデター計画(2016年7月15日)直後のエルドアン大統領の反応を振り返れば、金正恩氏の立場をもう少しリアルに理解できるかもしれない。
エルドアン大統領は、「クーデターの主体勢力は米国亡命中のイスラム指導者ギュレン師だ」と名指しで批判し、米政府に同師の引き渡しを要求する一方、クーデター事件に関与した軍人らを拘束し、公務員を停職処分、教育関係者や報道関係者を粛清していった。トルコでは過去1年間で約15万人の裁判官、警察官、軍関係者、大学教授、各官庁職員など公務員が解雇され、5万人が刑務所に送られている。トルコの刑務所は反エルドアン派の国民で溢れている一方、大量の公務員が解雇されたため、国の通常の運営が停滞しているのだ。外部の人間から見れば、エルドアン大統領のクーデター未遂事件後の反応は少々、狂気じみているが、クーデター計画を肌で体験した独裁者の反応を理解する上で参考になる。
金正恩氏はエルドアン大統領の状況と酷似している。自分を暗殺し、粛清しようとしていた計画が進行していたのだ。対応が遅れれば、自分は抹殺されていたかもしれない、といった悪夢を払しょくできない。エルドアン大統領の場合、ギュレン師であり、金正恩氏の場合、張成沢が悪夢の原因となったわけだ。
北の核・ミサイル問題の最大ネックは米国の敵対政策ではなく、金正恩氏を苦しめているクーデタ事件の後遺症だ。その点を理解しない限り、如何なる対北制裁も効果を発揮できないばかりか、独裁者を一層、狂気に走らせる恐れが出てくる。後遺症の症状とは、恐怖心であり、怒りだ。人間の原始的な感情だ。それゆえに、それらの感情を抑制することが難しいのだ。
国際社会の対北制裁は金正恩氏の後遺症を更に悪化させるだろう。フェイク・ニュース1本で朝鮮半島を戦火に陥れる危険性が出てきたのだ。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2017年8月2日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。