『消えた市区町村名の謎 地名の裏側に隠されたふるさとの「大人の事情」』 (イースト新書Q)では、藩の名前と現代の市町村名との関連をあらいざらい紹介している。藩というのは明治二年にはじめて公式名称になったのであって、江戸時代には存在しなかったので、正式の藩名などというものもなかった。
正式な藩名は明治二年の版籍奉還のときに出きて明治四年の廃藩置県のときになくなった。藩名はすべてその所在地名ですので、長州藩とか薩摩藩とかいう言いう名前の藩は存在したことがなく、すべて、明治以降に生まれた俗称だ。
また、この明治二年の版籍奉還より先に消えた大名領国もあれば、生まれた大名もいる。俗に言う会津藩は明治元年に消えていたので、版籍奉還の時点では政府直轄の若松県だった。逆に長州藩家老の吉川氏の場合には、明治元年に諸侯に昇格したので、岩国藩は存在する。さらに、明治二年と明治四年のあいだに藩の改廃も名称変更もあった。
明治四年の廃藩置県のときには260の藩がありました。ただし、直前に4藩の廃止があったので264藩と捉える方が自然だ。そのうち、現在も127藩の名が現在の市町村に残っている。しかし、小さい藩はその領地が現在の市町村より小さいものも多いので、当然なので、三万石以上でみると131藩の名のうち91が現在も残っている。
さらに、10万石以上に絞ると、藩の名が市町村名に残っていないのは、豊津、大泉、淀、忍、松代、大聖寺だ。
豊津藩は小倉藩、大泉藩は庄内藩だ。なぜそうなったかは、拙著をご覧下さい。淀藩は鳥羽伏見の戦いで城も城下町も焼かれた上に、淀三川(宇治・桂・木津)の合流地点を、近代的な治水技術で改修したときに、市街地が分断されて都市として機能しなくなり、京都市伏見区の一部になった。
忍藩は埼玉県の行田市で、もともと城は忍城で城下町のことは行田町といっていた。
松代藩10万石は真田氏が殿様で、川中島の古戦場の近くにある。善光寺の門残町だった近郊の長野に県庁が置かれ、松代はそのなかの歴史地区のようになっていた。大聖寺藩は富山藩と同格の金沢(加賀)藩の支藩で10万石の城下町だったが、山代温泉、山中温泉、片山津温泉などの所在地を合併したが、観光面の配慮もあって加賀市という名になり、JRの駅も加賀温泉駅ということになった。
そのほかにもマニアックな歴史が市町村名にはある。