「役所の原稿朗読」は国会軽視か

江崎鉄磨沖縄北方担当大臣が、国会答弁の間違いを避けるために「役所の原稿を朗読する」と発言したのは国会軽視であると東京新聞が批判している。役所の原稿朗読は国会軽視なのだろうか。

民進党前身の民主党は「政治主導」を掲げて政権を取ったことがある。官僚に依存すると省益を打破できず結果として改革が遅れるという危機感が「政治主導」という考え方を生んだ。「政治主導」を掲げる政党にとっては「役所の原稿朗読」は確かに国会軽視に他ならない。

しかし政府が従来と異なる答弁をすると猛烈に追及されるのが実情である。政府は3月に教育勅語を教材とする可能性は否定されないという答弁書を閣議決定したが、野党から批判され、4月に活用を促す考えはないとの答弁書を改めて閣議決定したと、日本経済新聞が報じている。

衆議院の記録を見ると、最初の答弁書は民進党の初鹿明博議員に対して出されたもので、「憲法や教育基本法等に反しないような形で教育に関する勅語を教材として用いることまでは否定されることではないと考えている。」と書かれている。次の答弁書は無所属の仲里利信議員に対するもので、「戦前の教育において用いられていたような形で、教育に用いることは不適切であると考えている。」とある。この部分だけ読むと答弁を改めて修正したようだが、前者には「教育に関する勅語を我が国の教育の唯一の根本とするような指導を行うことは不適切である」とあり、後者にも「教育勅語を教育において用いることは…国民主権等の憲法の基本理念や教育基本法の定める教育の目的等に反しないような適切な配慮がなされているか等の様々な事情を総合的に考慮して判断されるべき」とあるから、二つの答弁書は内容的に変わりない。

紙に書いた答弁書ですら内容そのものよりも表現が追及されるのだから、口頭で国会答弁する際には慎重にならざるを得ない。だから江崎大臣は「役所の原稿朗読」といったのだろう。野党が江崎大臣を国会軽視と批判するのであれば、細かな表現の相違は問題にすべきではない。そうしなければ「政治主導」は実現しない。他方、些細な表現を問題にし続けるのであれば、経済産業省が実験した「人工知能で国会答弁」の現実味が増す。しかし、「人工知能で国会答弁」を許容するのであれば政治家はいらない。