「むら社会」と「無縁社会」の日中比較①

山西省の農村(写真AC:編集部)

かつて、中国の大多数を占めていた農民の、排他的な「むら社会」の自治力を見た者は、国民党が来ようが、共産党が来ようが、しょせん外套を着替えるようなもので、膠のように皮膚に密着した衣は容易にはがれないと考えた。だが毛沢東はマルクス主義と抗日闘争を合体させ、この自治組織を解体して手中に収めれば、過去の皇帝を上回る偉業が果たせると考え、実行した。伝統を封建主義として切り捨て、自分の思想を打ち立てる大胆さを持った。

鄧小平が始めた改革開放の結果、農村から都市へ大量の労働者が流れ込み、すでに都市人口が農村人口を上回った。共産党を支えていた農民が土地から切り離されて分散し、下層階級に転落していく「無縁社会」が生まれている。その一方、党が既得権益集団として腐敗し、大衆から遊離した。このまま放置すれば、過去の王朝崩壊と同様、大衆の蜂起によって共産党という外套も脱ぎ捨てられる。その危機意識の中から生まれたのが習近平政権である。

習近平の父、習仲勲は毛沢東とともに農民を組織し、建国を成し遂げた革命第一世代である。習仲勲は「私は農民の子だ」と言い続け、習近平は「私は黄土の子だ」とそれを受け継いだ。いわゆる紅二代として、親の築いた財産を失うわけにはいかないという責任感、使命感は非常に強い。彼の目には、無縁化し、疲弊する農民の姿が映っている。彼の祖先は、飢饉に見舞われて故郷の河南省を離れ、陝西省に流れ着いた流民だった。

中国のインテリには農村、農民に対し、二つの相反する見方がある。一つは、近代以降の啓蒙思想の流れをくむもので、封建的な思想が抜けきらず、民主化の妨げになっているとする愚民観。もう一つは逆に、長年にわたって培ってきた伝統的な自治が崩壊し、道徳が荒廃しているとみる。農村こそ人びとが調和のとれた生活を送る理想郷だとするユートピア観の裏返しだ。前者は、民主改革が不徹底であるとの批判を含み、後者には、農村の伝統的な自治組織をずたずたにした集権体制への非難が含まれている。

だが、私がいる汕頭大学のある潮汕地区は、地理的に歴代の王朝政権から遠く、今もなお伝統的な家父長制に支えられた自治を守る「古村落」が多く残る。華僑の故郷であり、祖先崇拝を柱とした濃厚な祖宗文化がある。強い血縁地縁を持った「有縁社会」だ。排他的、男尊女卑といった弊害を持ちながらも、海をわたり、生きながらえてきたDNAはそう簡単に失われるものではない。

中国は広大であり、ひと口に農村といっても千差万別である。共産党指導部が、地方の経験を重んじるのは、こうした国の多様性を学ぶ必要があるためだ。最先端の科学技術を追求すると同時に、いかに農村を治めるべきか。その複雑さと困難さを知らなければ、この国を率いていくことはできない。朝から晩まで北京のオフィスに座り、東京の指示を受けながら原稿を書いているだけの記者には、到底、理解が及ばない世界だ。

農村での民主は投票ではなく調停である。法治も「理」による強制ではなく、「情」による説得である。だから「合情合理(情理にかなう)」という。西洋でさえ現実には存在しない教科書的な民主モデルをもってきても、まったく出口は見つからない。いい悪いを議論しても始まらない。まず実態を把握しなければ、その先には進めない。日本はむら社会を失ったがために、隣国の農村を見る目もまた失われた。

日本で「むら社会」といえば、たいていは身内意識ばかりが強く、閉鎖的で、排他的なイメージを連想させる。組織内で生まれる派閥がその最たるものだ。開かれたインターネット空間でさえ、ある集団にのみ通用する特定の言語によって、むら社会意識の投影されたバーチャルな閉鎖社会が現れる。地縁血縁ではない、利益や快楽といった個人の価値が関係を支える。だから中身は空虚で、一夜にして崩壊するもろさがある。無縁社会と隣り合わせに存在しているのが、現代のむら社会である。

歴史家の網野善彦は、日本には中世以降、縁切り寺や駆け込み寺、さらには自由経済都市が、地縁血縁のしがらみから逃れる者を受け入れ、「無縁」という名の平等空間を提供したことを指摘した。「有縁」があっての「無縁」であり、現代のように、「有縁」の関係が失われた「無縁」ではない。

この意味で、中国の「無縁」は、双方の性格を帯びた過渡的な状態にある。やむなく絶たれた縁もあれば、地縁血縁から逃れ、新たな縁を求めてさまよう人々も少なくない。農民組織に支えられて誕生した共産党は、有縁社会の地殻変動によって、その土台を揺さぶられている。習近平は、「中国の夢=中華民族の偉大な復興」というキャッチフレーズを掲げ、中華民族としての新たな「縁」によって、無縁社会の再構築を図ろうとしている。

孫文は、家を国家の基礎とする儒教思想を援用し、宗族社会=有縁の延長として中華民族が団結する「振興中華」を描いた。毛沢東は有縁社会を解体し、絶対的な指導者が人民一人一人と直接結びつく集権体制、つまり「超有縁社会」を目指した。習近平の「中国の夢」は孫文の「振興中華」に近いが、土台となる有縁社会を欠いており、かつてないチャレンジとなる。

実は、こうした中国の農村社会を観察するにあたり、有益なのが、日本で失われたむら社会の記憶だ。柳田国男、きだみのるを通じて、中国農村の深層を探ることで、日本の無縁社会を見直すきっかけになるのではないか。

(続)


編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年8月20日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。