団体旅行に参加して、8月下旬に西安と洛陽に行ってきました。成田から海南航空の直行便で西安へ行って3泊しました。真ん中の3日間のうち2日間は西安観光、1日が洛陽に新幹線で日帰りでした。
これまで洛陽は西安からバスで8時間もかかっていましたが、新幹線では最短1時間20分。これまで洛陽は交通不便だったのですが、これで、中国全土から人が殺到して間もなく世界的な観光地になるでしょう。本日は、洛陽旅行記を紹介します。なお、洛陽の歴史は拙著「古代史が面白くなる「地名」の秘密」(歴史新書)にも詳しく書いてます。
新幹線は「のぞみタイプ」なら1時間20分です。途中で渭水流域から黄河流域に移ります。遠くに黄河らしき流れが見えますが、本当にそうなのかは確認出来ません。函谷関の下をトンネルでぬけると三面峡という駅があって、その次ぎが洛陽竜門駅です。
洛陽と南の竜門の中間にありますが、駅名になっているのは、竜門の人気の高さが故でもあります。
9つの王朝の都だったというのが洛陽の売りですが、現在の市街地は隋や唐の洛陽城の跡です。東周時代もその近辺ですが、後漢や北魏の時代の洛陽城は市街地の東の郊外にあります。新幹線駅からすると北東です。
まず、行ったのは、中国への仏教の伝来の地と言われる白馬寺です。アフガニスタンから二人の僧が経典を白馬に積んでやってきたとされています。アフガニスタンというとぴんときませんが、要するにガンダーラです。当時のものはもちろんなく、明や清の時代の遺構がほとんどですが、中国仏教の聖地としてそれなりに重んじられている雰囲気はあります。
つづいて、洛陽旧市街に入って昼食です。河南料理は地理的位置から北京料理、四川料理、上海料理の中間といったところ。鯉のような淡水魚の揚げ物を煮付けたものが出てくるのが地方色でしょうか。
市内には城壁がありますが、これは、清の時代のもの。唐の時代の城壁も少し残骸が残っているようです。市街地の南に洛水が流れています。洛陽の都はこの洛水の南北にまたがっているので鴨川くらいの川かと思っていたのですが、淀川くらいはあります(恭仁京はこれを真似て木津川をまたいで建設されました)。
竜門は南の郊外の渓谷地帯です。恭仁京に対して紫香楽宮の位置にあるという人もいます。石窟はだいぶ遠いところに駐車場があって、カートで移動です。そこから、上流へ向かって2キロくらい崖に無数の石窟が穿たれています。北魏様式のスマートで長い顔のものもありますが、もっとも有名な奉先寺の盧遮那仏は、丸顔です。
モデルは則天武后と中国人は言ってます。たしかにそうかは分からないがそういうように彼らは思っているようです。かつては悪女といわれたが、江青夫人による評価以来、現代でも偉人扱いです。私もかなりよい女帝だったと思います。悪く言うのは儒教思想の間違いです。高さは16メートルで、ほぼ奈良の大仏と同サイズです。
帰りは橋を渡って、大仏を対岸から見て、また、カートで駐車場に帰ります。対岸から見る風景も抜群です。多くの石窟はだいぶ荒れているが、徐々に化粧直しも進むだろうし、便利になったので間違いなく世界でもトップクラスの観光地になると思います。
次に訪れたのは、「関林」。関羽の墓です。関羽は呉の孫権に敗れて湖北省で討ち死に。その現場に胴体があります。そして、孫権は首を曹操に送って侮辱させようとしたのですが、曹操は手厚く英雄を葬りました。それがこれです。これに、山西省の故郷にある魂を葬った墓と三大聖地になっています。諸葛孔明と並んで関羽に対する中国人の民間信仰は非常なものだということが感じられる熱い聖地でした。
夕食は「水席料理」。汁物料理が数種類含まれるのでこの名があるようです。それにしても不思議なのは、今回の昼食・夕食のデザートはすべてスイカだけ。これだけは何とか改善して欲しかった。
杏仁豆腐のようなデザートは広東のものという受け取りなのだそうです。
洛陽に来てみて、この遺跡ができたのは日本ではどんな時代だったかなどと考えると世界史と日本史のつながりを改めて体感できました。だいたい則天武后の時代は大化の改新の頃です。
奈良や京都と長安や洛陽の距離は日本人の常識以上に近い。日本文化は唐の文化の正統的継承者だという思いを深めました。