9月10日は中国の教師節(教師に感謝する日)である。朝から学生たちのメッセージがチャットに届いた。中には卒業生からの便りもあって、少し感激した。新たな職場で、連日、徹夜をしながらも奮闘しているという。天真爛漫だった学生時代を懐かしむ気持ち、社会人として成長している自分を誇る気持ち、様々な感慨が伝わってきた。
あまり知られていないが、教師節は習近平総書記の父、習仲勲が発案したものだ。共産党党中央書記局の書記として文教を担当していた習仲勲が教育部門からの要望を受け入れて建議し、1985年、全国人民代表大会で正式に制定された。文化大革命期、教師は知識階級として迫害され、生徒からもつるし上げを食った。「革命」という名目が、いとも簡単に立場を逆転させた。中国史上例のない惨劇によって、教育は完全に荒廃した。
教師節は、教師の権威を回復させ、本来の教育を取り戻すためのものだった。当時、習仲勲の上司に当たる党中央書記局のトップ総書記は胡耀邦だ。開明的な指導者によって生まれた記念日である。政治が過剰な関与をすると、教育は権力者の道具と化す。その戒めをするための日だと考えたい。
メッセージを送ってくれた学生に、「学生にとって教師とはどんな存在なのか」と尋ねてみた。率直な答えがあった。
「幼稚園の先生は行動の模範、小中高の先生が与えてくれたのは知識、大学の先生は知識、それに討論」
「生徒の監督者であり、指導者」
「導き、教え、惑いを解いてくれる人生の先輩。そして意見の交換ができる仲間」
「先生にとって一番難しいのは一視同仁だ。人間である以上、少しの偏愛はあるが、自分の学生である以上、バランスを保たなければならない。積極的に交わってくる生徒ばかりでなく、おとなしい生徒にも関心を払わなければならない」
「先生は、自分が迷っているとき、無力を感じているときに、明かりとなって導いてくれる重要な存在だ。私は、クラスメートにはあまり自分のことを話さないので、いつも一人で考え、内心は非常に孤独だ。そんなときに先生から励まされると、世の中には自分をわかってくれている人がいるんだと安心する。自分一人で頑張っているのではないと思うと、元気を得られる」
卒業後、海外へ修士課程の留学をする学生が際立って増えている。明確な目標を持っているものもいれば、就職のため、まだ自分のやりたいことが見つからないため、と様々だ。豊かになったということもあるが、とにかく競争が激しすぎるのである。学ぶことそのものよりも、キャリアアップが目的となっていることが多い。現代消費社会のブランド志向が、教育にまで浸食しているのは、今に始まったことではないとはいえ、好ましい現象ではない。
社会の既成価値観を押し付け、功利主義に染まった教育の実態を「学校化」と呼んで批判したのはイヴァン・イリッチの『脱学校の社会』(東洋・小澤周三訳)だ。イリッチによると、学校は「漸進的に消費をふやすという神聖なレースに新参者を導き入れる入会の儀礼」であり、中途退学者に「贖罪の山羊という烙印を押し、彼らを生贄にする罪滅ぼしの儀礼」である。そこからは独立した人格、既成秩序を打ち破る創造力は生まれない。
ではそうすればよいのか。彼はこう述べている。
--実際には学習は他人による操作が最も必要でない活動である。学習のほとんどは必ずしも教授された結果として生じるものではない。それはむしろ他人から妨げられずに多くの意味をもった状況に参加した結果得られるものである。たいていの人は「参加すること」によって最もよく学習する。しかし彼らは、自分たちの人格や認識能力は学校で念入りに計画や操作を受けた結果向上すると思い込まされるのである。
人を生かそうと思えば作為が入り込む。彼らを導くには、上からの指導ではなく、異なるものたちとの交わりを背後から支え、奨励することにあるのかも知れない。二年目の授業は、この点を心掛けたいと思う。
編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年9月10日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。