音楽教室との訴訟―裁判例からはJASRAC有利だが・・

日本音楽著作権協会(JASRAC)は音楽教室から著作権料を徴収する方針を決めた。これに対して音楽教室を運営する企業・団体が「音楽教育を守る会」を結成し、JASRACに使用料を支払う義務がないことを確認する集団訴訟を提起。9月6日に第1回口頭弁論が東京地裁で開かれた。

勝訴を確信するJASRAC

JASRACの浅石道夫理事長は7月21日付、朝日新聞のインタビューで、「法的な検討は尽くしており、百%の自信がある」と答えている。著作権法は「公衆に聞かせる目的の演奏」には演奏権が及ぶとしている(22条)。守る会は技術を学ぶ目的の演奏は聞かせる目的の演奏ではないと主張。JASRACはカラオケボックスでの一人カラオケも、「聞かせる目的の演奏」と認定された1998年の判決を根拠に、教えるための演奏も「聞かせる目的の演奏」であると反論する。

著作権法は公衆について「特定かつ多数の者」を含むとしている(2条5項)。裏返せば、「特定かつ少数」の場合だけが、公衆から除外されることになる。守る会は教師と生徒という特定の人間同士の関係は「公衆」ではないと主張する。これに対して、JASRACは一人カラオケでも来店する顧客は不特定多数であることから、公衆に聞かせる演奏・上映であるとしたカラオケボックス判決を根拠に、誰でも生徒になれる音楽教室での演奏は「公衆に対する演奏」であると反論。

その後、JASRACが当事者ではない2003年の社交ダンス教室事件でも、裁判所は誰でも入会できるダンス教室の生徒に対する演奏は、公衆に対するものであると判定した。これらの判例にもとづけば、JASRACが勝利を確信する理由も理解できなくない。しかし、問題はこうした判決が、今の時代や社会通念に合った解釈といえるかどうかである。

エクイティ(衡平法)の法理

米国の著作権法には、公正な利用であれば著作権者の許諾なしに著作物の利用を認めるフェアユース規定がある。フェアユース規定は英国の「エクイティ(衡平法)の法理」に由来している。中世の英国では、コモンロー(慣習法)の通常の裁判所では正義が得られないと考えると、その救済を求める請願を国王に提出した。国王の大法官は事実を確認し、コモンローでは救済できないが、正義と衡平の見地からは救済に値すると判断した場合には救済した。

この救済が積み重なってエクイティ(衡平法)と呼ばれる法体系が生まれた。エクイティには公平、公正の意味があるが、公平と正義の観点からコモンローの不備を補ったわけである。エクイティ(衡平法)の適用例として、シェイクスピアの戯曲「ヴェニスの商人」が紹介されることがある。フィクションだが、わかりやすい例なので、以下、筆者なりに要約する。

ヴェニスの貿易商人が、ユダヤ人金貸しから金を借りるために、期日までに借りた金を返せなければ、胸の肉1ポンドを与える証文を書く。商人は簡単に金が返せると思っていたが、船が難破したため全財産を失ってしまう。金貸しは肉1ポンドを要求して、裁判を起こす。裁判官は当時の法律にもとづいて、証文どおり胸の肉1ポンドを切り取ってよいという判決を下す。金貸しは喜ぶが、裁判官は続ける。「証文には『肉1ポンド』と書いてあるが、血のことは書いてないので、肉を切り取るに当たって血を一滴でも流せば、法律に従って全財産を没収する。」

現代社会でも法律がますます複雑精緻化しているだけに、法律をそのまま適用すると公正と正義の観点からは、疑問視される結論が導かれるケースは当然出てくる。フェアユースのようなエクイティ(衡平法)の法理の存在意義は失われていない。

著作権法改革により日本を元気にする会議

日本の著作権法にはフェアユース規定はない。このため、著作権法が時代に追いつけない事象が続出している。最近、立ち上がった「著作権法改革により日本を元気にする会議」 は、声明で音楽教室の問題を含む4つの事例を紹介している。このうち学校教育の問題とイノベーションの問題については、筆者も過去に紹介した
「教育の情報化は授業を受ける子ども目線で!(上)(中)(下)」
「文化庁報告書に見る政府立法の限界(上)(下)」

「GDP600兆円達成へ向けたイノベーション促進策」

著作権法改革により日本を元気にする会議」では賛同者を募っている。賛同者はこれまでの呼びかけの関係で、法律関係者に偏っているが、それ以外の方も大歓迎なので、ご賛同いただけると大変ありがたい。

守る会は、音楽教育の現場からの著作権料徴収を取り下げるための署名を57万人集めて、文化庁に提出している。こうした草の根の声もバックに仮に地裁や知財高裁で敗訴しても、最高裁まで争ってもらいたい。音楽教育を守るためにも、日本を元気にするためにも・・

城所岩生(国際大学客員教授・米国弁護士)