遊び心が育てるネット時代の創新

世界の主要メディアが参加する国際団体「世界新聞・ニュース発行者協会(WAN-IFRA)」が年に一回主催する大会の名称が、

世界新聞大会(World News Paper Congress)から世界ニュース・メディア大会(World News Media Congress)

に変わったのは2015年からだ。インターネット時代を迎え、ニュースのデジタル化が定着したことを象徴する出来事だった。言葉はその時代、その社会を反映する。米国のAP通信が、原稿作成用に使用する用語基準のスタイルブックで、2016年版から、これまで頭文字が大文字だったインターネット「Internet」が小文字の「internet」と変更された。世界の人口の半分が利用するほどに普及し、固有名詞から普通名詞になったのだ。

インターネットはもともと、米ソによる核軍備競争が緊張していた1960年代、米国防総省が開発した「アーパネット(ARPANET)」が原型とされる。だが、これほどまでに広まったのは、そのプロジェクトにかかわった科学者らが、自分たちの研究に生かそうと活用し始め、さらに遊び心のコミュニケーションが多くの仲間を増やしていったからだ。

国益とも、経済的な利益とも関係ない。自主的、自律的な動機である。だからみなが自由で、だれにも等しく開かれ、成果を分け合うという原則が自然で出来上がった。遊び心は常に人間の創意の源なのだ。グーグルやフェイスブックのビジネスモデルをだれが予想し得たであろうか。ウィキペディアがここまで認知されるとは、当初、だれも信じていなかったに違いない。

新聞社には、私の在籍中だが、「遊軍」と呼ばれる「中堅記者」がいた。今はどうなっているかわからないが、記者クラブのようなルーティン業務には就かず、特定のカバー分野を持たず、自由に取材ができるというのが持ち味だった。日々の事象に追われることなく、より掘り下げた報道が期待されてのことだ。いわゆる調査報道はその典型である。記者クラブの取材は型にはまる。文字通り、その型を破る「遊び」が遊軍記者には求められた。

これはあくまで建前であって、実際は有効に機能していなかった。「遊ぶ」どころか、結局、様々な雑務を押し付けられ、忙しく動き回っていたような記者ばかりだった。遊び心はまったく感じられなかった。遊び方を知らなかったのか。いや、上から下までだれもどう遊んでよいのか、どう遊ばせればよいのか、わからなかったのだ。手持ち無沙汰にしていることの不安に耐えられなかったのだ。そうして遊軍記者は、まじめに働く道を選ぶしかなかった。

中国では国家が号令をかけ、イノベーションブーム(創新)だ。大学内でも、あらゆる学生の活動に「創新」の冠かかぶせられ、そうするとわずかながらでも公的補助が受けられる。だが参加している学生たちがどこまで、活動と創新との関係を理解しているかは疑問だ。表情を見ていればわかる。遊び心がまったく感じられない。楽しんでるようには見えない。課題をこなすような姿勢で取り組んでいる。要するにまじめなのだ。

「遊び心」は、中国語ではどうもぴったりくる表現が見つからないが、悠々とした自得の境地をいう「逍遥」あたりが近いのではないかと思う。

すべての行為に合理性や功利性を求められたら、遊びにはならない。

「無駄な時間も大切だ」と話すと、意味が分からずキョトンとした表情をする。一秒たりとも無駄にはできないと言わんばかりの反応だ。会わすに済むなら、チャットで要件を片づければいい。そう頭の中で損得のそろばん勘定が働く。「お茶を飲もうか」と誘って、「何を話すんですか」と問われれば、答えに窮してしまう。議題はなくても、必然性はなくても、ただ言葉を交わすことによって、得られることもあるし、それも目的になってしまうようであれば、顔を見合わせ話し合うこと自体が楽しみであってもよい。お茶の「心入れ」とはそういうものではないのか。

教室で席に腰かけ、先生から名指しされるのにビクビクする。席に座ったとたん、高い点数を取らなければならないと追いつめられる。なにかをしなければならない。なにか成果を上げなければならない。そんなことから解放されることがあってもよい。クラスの一員としているだけでいい、と受け入れることも大事だ。「to do」ではなく、「to be」にこそ価値があると思えるような場所が、みなに必要なのではないか。いつ来てもいい。いつでも君の席は用意されている。君がここにいること自体に意味がある。そこから自然に遊びを覚える。遊びの楽しみ方、尊さを学ぶことができる。

携帯とにらめっこしていても、そこには実感できる場所がない。バーチャルな空間があるだけだ。しょせんは幻に過ぎない。携帯が故障し、電源が切られたとたんになくなってしまうのだ。ある日気づかずに、アプリがバージョンアップしていたら、もうなくなっているかも知れない。それほど頼りないものだ。

追い立てられるような創新からは何も生まれない。遊び心をもっと大切にしたい。「無駄な時間」という表現に抵抗があれば、「目的から解放された時間」、あるいは、マクルーハンにならえば、「頭をマッサージする時間」と言い換えてもよい。ただし、メディアからも完全に解き放たれた状態である。


編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年9月12日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。