「倒幕が始まるのかと思っていたら、応仁の乱みたいにぐちゃぐちゃになってきた」というのが細川さんだからリアリティあり。「小池氏が衆院選に立候補する可能性は「恐らくないだろう」とも。
小池さんを語るというので、細川元総理が引っ張りだこで、「ギャンブラー」だなどとなかなか鋭い指摘も多い。
1991年の参議院選挙で日本新党がデビューして、比例区で四人が当選したが、このときの名簿1位は細川護煕、2位がおおかたの予想を裏切って大抜擢で小池百合子が名簿に登載されて当選した。
このときに、小池百合子が細川にサインを求めたら、「源朝臣護煕」と書いたとか言うエピソードを披露していたのを見た記憶がある。
もっとも、ある人が細川に先祖としていちばん意識するのは誰かと聞いたら、藤原道長といったそうだ。
ところで、拙著「『系図』を知ると日本史の謎が解ける」(青春新書)では、細川家についても扱っている。
肥後の殿さまであり細川護煕首相を生んだ細川家は、足利一族だが、それほど格が高いわけではなかった。 足利一族では、あとの世代になってから分かれたほど上位に位置づけられる。しかし、細川氏は初代義康の子である義季が初代だから、一族のなかでの地位はひくかった。
細川氏の名前は三河国額田郡の地名だ。現在では岡崎市の一部である。しかし、南北朝時代に一族が活躍し、とくに頼之は将軍義満の幼少期に後見役として足利幕府の基礎を作った。
肥後細川家は、頼之の子である頼有を始まりとし、和泉半国の守護をつとめていたので和泉家といわれる分家だ。
戦国時代の藤孝(幽斎)は、嫡男忠興の妻に明智光秀の娘ガラシャを迎え、丹後宮津城を与えられて、光秀の与力とされた。本能寺の変に際しては光秀から離れ、豊臣大名として生き残った。
関ヶ原では、忠興は家康に従い、幽斎も田辺城に籠もって西軍と戦い、豊前一国と豊後の一部を与えられることになった。剣豪の宮本武蔵を家臣として抱えたのはこのころのことだ、
ガラシャは大坂にあったが西軍の人質に取られることを拒否して自害した。長男利隆の妻は前田利家の娘だったが、ガラシャを見捨てて脱出したことが忠興の不興を買い、それを弁護した利隆まで廃嫡にされた。
忠興は、次男興秋も飛び越して徳川に人質に出していた三男の忠利を後継者とした。のちに、次男興秋は大坂の陣で豊臣方につき、戦後、忠興に切腹を命じられている。大坂方についたのは、細川家としてかけた保険だったかもしれないが、ともかく、忠興は非常に徹した。
江戸中期の第七代藩主重賢は、名君として上杉鷹山と並び称されたが、その次の治年を最後に忠利の系統は終わり、支藩の宇土藩主家から斉茲が迎えられた。
その祖は、忠利の弟でガラシャの死後に側室から生まれ、晩年の忠興に溺愛された立孝である。細川護煕元首相は、斉茲から数えて六代目であるので、上記のような事情からガラシャのDNAは継承していない。
しかし、細川護煕の先祖にはたっぷり有名人がいる。実母は近衛文麿の娘だが、その母は、佐伯藩毛利家、その母は与板藩主井伊直安の娘で、直安の父は井伊直弼だから、護煕は井伊直弼の子孫である。
また、近衛文麿の母は前田家出身で、これは11代将軍家斉につながる。
しかし、先祖として意識はしているようで、大津市内坂本にある明智光秀の墓を訪れたことが報じられたこともある。
当時、政治評論家として高名だった細川隆元は、忠興の長男だった忠隆の子孫で、ことあるごとに、護煕より自分が本流だといっていた。
忠隆の娘で西園寺家に嫁いだものがあり、そのDNAは広幡家、正親町家を通じて、孝明天皇の実母に繋がり、したがって、今上陛下にもつながる。
坂本龍馬は、光秀の甥である光春の子孫と称し、それがゆえに桔梗を紋所としているが、信憑性は低そうだ。
細川本家は京兆家といわれたが、応仁の乱ののち政権をとった奇人管領・細川政元が女性嫌いで断絶し、阿波守護家が嫡流となったが、大坂夏の陣で豊臣方にあったのち、妹の嫁ぎ先である三春藩秋田家の藩士となった。
追伸;細川護煕は織田信長と徳川家康の子孫でもある。
徳川信康の正室は織田信長の長女である徳姫であるが、その二人の娘が小笠原秀政の正室で、そのあと、蜂須賀家、鳥取池田家、鍋島家を通じて細川護煕の曾祖母になる。したがって、細川護煕は信長や家康、さらには、蜂須賀小六や伊達政宗の子孫のはずだ。