かれこれ30年くらい前、脱サラして司法試験の勉強を始めた時のことでした。私は、合格体験記を読んだり、(当時隆盛を誇っていた)司法試験予備校の無料ガイダンスに頻繁に足を運びました。なにせ、「どの基本書(テキスト)を選べばいいのか?」を知らないと勉強自体が始まりませんから。
とある予備校のガイダンスで、刑法の基本書について以下のような説明がなされたのを今でも憶えています。
「司法試験委員が大塚先生なので、大塚先生の「刑法概説」がオススメです。ただ、団藤先生の格調高い文章も捨てがたいですね」
団藤先生の「刑法網要」の格調高い文章は「名文」で、論文試験を書くときのお手本になるという趣旨だと私は理解しました。
ところが最近、団藤先生の「刑法網要」に関するコメントを読んだところ、「文章が難解なのがデメリットだ」と書かれていてビックリしました。30年前には「格調高い名文」だったのが、今では「難解な文章」に変わってしまったのです。
よくよく考えれば、文章にしろ話し方にしろ時代と共に変遷するので、当然といえば当然のことなのでしょう。「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」とか「いずれの御時にか~」という表現を耳にして私が感慨深くなるのは、高校時代の国語や古典の勉強を思い出すからなのでしょう。
30年前の司法試験業界には様々な「都市伝説」があり、そのひとつが「けだし」という表現を論文で使ってはならないというものでした。「けだし」とは「なぜなら」の意味で用いることが多いのですが、我妻栄先生がよく使っていた表現で、「我妻先生の基本書を読んでいるのは年寄り受験生だから、若手を取りたい試験委員はきっと減点する」というのが理由でした(予備校の講師が真剣に言っていました)。
このように考えると、「名文」や「名表現」というのは時代とともに変遷していくものなのでしょう。
野口悠紀雄先生がしきりに「さらなる」は文法上間違っているので、少なくとも公文書では用いるべきではないと主張しています。
民法の星野英一先生も「…すべき」で止めるのは文法上間違っており役所の文章(公文書)に散見されるのは嘆かわしいと言われていました。
いずれも正しい指摘で、公文書には正確な文法表現を用いるべきだと私も思います。
ただ、私的な文章や出版物では「さらなる」も「べき。」も市民権を得ています。
時代の変遷により私的な文章表現が変わるのは問題ないと考えます。
時代の変遷に左右されない普遍的な「名文」と「難解」の違いは、(少なくとも論理的な文章では)結論に理由が付されているかどうかだと私は考えています。
今や古典となった感のある我妻「民法講義」はしっかりと理由が書かれており、今でも時々参照することがあります。逆に、刑訴法の大家だった渥美東洋先生の「刑事訴訟法」は「理由」がなかったり、うんと離れた場所に書かれていたりで極めて「難解」な一冊でした。
「名文」とは異なりますが、マンキューの「入門経済学」を始めとする米国の経済学者のテキストには、「ジャックとベティーが…したとしよう」というふうにわかりやすい具体例がふんだんに盛り込まれており、読者への配慮がうかがわれます。
「文体」という点では、活字媒体や法律文書では「です、ます」調は少数派です(少なくとも法廷文書はすべて「だ、である」調です)。
ところで、「だ、である」調の文章ばかり書いてきた私が、どうして今「です、ます」調を使っているのでしょう?
10年以上前に初めて書いたブログが離婚問題を解説するもので、女性読者が多かったことが原因なのでしょう。そのブログを書いていたため、リコ弁(離婚弁護士)という不本意な(笑)あだ名を付けられたこともあります。
仕事の比重からすれば、中小企業法務が一番で離婚事件の比率はそれほど高くなかったのですが…(^^;)
編集部より:このブログは弁護士、荘司雅彦氏のブログ「荘司雅彦の最終弁論」2017年10月6日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は荘司氏のブログをご覧ください。