中国の政治を理解するための視点③

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汕頭大学長江新聞・伝播学院(ジャーナリズム・コミュニケーション学部)に来て、学部長に当たる范東昇院長と知り合った。父親は中国メディア界の開拓者、范長江(第3代『人民日報』社長)だ。范東昇院長は華僑向け通信社の中国新聞社に長く勤め、アメリカ代表の任にもあった。開明的なジャーナリズム論を説くが、根っこには紅二代のDNAを持っている。国家と党に対する強い責任感と使命感を担っていることは、言葉の端々から感じられる。

范長江は1909年、四川生まれ。南京にあった国民党幹部の養成学校で学んだが、1931年、日本軍による「9.18事変」が勃発。不抵抗政策をとる蒋介石を見限り、北京に行きアルバイトをしながら大学哲学科に進学した。学問に飽き足らず、新聞への寄稿を始め、当時、最も影響力のあった天津の『大公報』の特約記者として西北地方を旅する。それは彼の夢であった。1935年5月から10か月間、四川省成都から陝西、青海、甘粛、内モンゴルを馬やいかだを使いながら踏破し、同紙に連載した。

范長江はその後、共産党が拠点としていた陝西省延安を訪問し、毛沢東にも会っている。1939年、周恩来の紹介で共産党に入党。国共内戦では従軍記者として活躍し、建国後は『人民日報』社長などを歴任した。文化大革命期、河南省の農村で強制労働を強いられたが、1970年10月23日、農園近くの井戸で死んでいるのが発見された。文革後の1978年、名誉回復され、胡耀邦が追悼式を主催した。現在、中国国内の報道に与えられる最も栄誉ある賞には「長江」の名が冠せられている。

范長江が西北取材をまとめた『中国的西北角』が1936年8月、中国で出版され好評を博した。国内が混乱する中、初めて記者が深い内陸部に足を踏み入れ、実情を世界に伝えた。中国新聞史上の金字塔的な業績とされている。1年半後の38年1月には日本の改造社から邦訳が出ている。訳者は中国文学者の松枝茂夫。筑摩叢書から再刊されている。私も読んだが、漢族と少数民族が共生する辺境地域の貴重な記録が多数記されている。

話が若干脱線したが、習近平政権を支える紅二代の性格について、日本人ももっと深い理解が必要である。

習近平政権が誕生した2012年、日中国交正常化40年を記念して企画されたドキュメンタリー映像『暖流』がある。胡耀邦元総書記の長男、胡徳平が映像規格の総責任者を務め、聶栄臻元中央軍事委副主席の長女・聶力が総顧問、張愛萍元国防相の甥・李鷹が総監督と、将軍を含む紅二代の65人以上が発起人に名を連ねた。毛沢東や周恩来など中国指導者と日本人との交流、日本人戦犯の反省、国交正常化を支えた民間交流、日本の対中援助など友好交流の歩みを記録したものだ。残念ながら、領土問題の先鋭化で最後はとん挫したが、中国社会の中で強力な力がなければ生まれ得ない企画だった。

習近平政権が、この紅二代による広範なバックアップに支えられて誕生し、主としてその反腐敗キャンペーンへの強い支持を得ていることは、いくら強調してもし過ぎることはない。

前任の胡錦濤前総書記と比較すれば一目瞭然だ。幹部養成の共産主義青年団(共青団)で権力の階段を一歩一歩進んだ胡錦濤は、企業で言えばサラリーマン社長だ。高い実務能力で経済成長路線を踏襲し、世界第2位の経済大国を誕生させることに成長したが、大胆な経営判断はできない。十分な権力の後ろ盾がないため、富の偏在を打破すべき改革の停滞を招き、「不作為の十年」との酷評を浴びた。

一方、習近平は、危機を救うため創業者一族が切り札として担ぎ出した二代目社長に当たる。官僚臭の濃い共青団エリートとは明らかに異なる存在感がある。すでに指摘した責任感も使命感もまた、創業者集団ならではのものである。

胡錦濤はもともと権力に対する執着が強くなく、江沢民元総書記の勢力に押され、十分な権力基盤を築くことができなかった。当時は9人いた最高指導部の党政治局常務委員が、「9匹の竜が並び立つ」と言われるほど独立性を強め、集団指導の欠陥が指摘された。北京では、「それぞれが自分の所管する業務に専念し、他の領域には口を出さない。トップは既得権を侵さないよう、調整に腐心する」と常務委の事なかれ主義を評する声が聞かれた。

権力間のチェック機能がマヒし、公私混同の腐敗が深刻化した。周永康・薄熙来・令計劃ら一派による政権奪取のための謀略や暗殺までが横行し、名実ともに危機的状況を迎えていた。そこに、紅二代の輿望を担って登壇したのが習近平である。まずは腐敗した指導者を排除し、権力を総書記のもとに集中することが至上命題だった。まずは軍を抑え、次はペンを牛耳る。定石通りの政権掌握が進んでいるのだ。

(続)


編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年10月7日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。