徳川慶喜と有栖川宮と高松宮の濃密な閨閥

徳川慶喜(Wikipediaより:編集部)

大政奉還150年ということで徳川慶喜に注目が集まっているが、その慶喜と有栖川宮家や高松宮の深い関係を「系図を知ると日本死の謎が解ける」(青春新書)で解説した。

昭和天皇の弟である高松宮宣仁親王の喜久子妃殿下は、徳川慶喜の子慶久の娘である。これをもって公武合体を実現したものと勘違いする人が居るが、妃殿下の母親が有栖川宮家出身だから選ばれただけだ。

高松宮の名は香川県の高松とは関係なく、有栖川宮家の屋敷がかつてあった京都の高松殿(姉屋小路通新町西入る)に由来する。

有栖川宮威仁親王が1913年に亡くなられ、有栖川宮は断絶した。親王を兄貴分のように慕われていた大正天皇は、8歳だった第三皇子の宣仁親王に高松宮の号を与え、有栖川宮の祭祀を受け継がせた。

さらに、有栖川宮威仁親王の娘の子である妃殿下との結婚も早々に決められた。しかも、徳川慶喜の母親・吉子も有栖川家出身だ。

斉昭の生母は公家の外山氏、父方の祖母は一条道香(後陽成天皇の男系子孫)であるから皇族・公家の血を濃厚に受け継いでいる。また、斉昭の妹の清子が関白鷹司政通の夫人であり、慶喜の異母妹である茂姫(貞子)は、かつての和宮の婚約者有栖川宮熾仁親王と結婚している(子供はない)。

慶喜が紀州系の一橋家に養子に入ったのは将軍家慶が慶喜の器量を評価してのことだという人もいるが、このころ(のちに慶喜となる)七郎麿は、水戸にいたので家慶に会ったことすらない。七郎麿の母が家慶正室である有栖川喬子の妹だったので白羽の矢をたてただけだ。