ドゥテルテ大統領と天皇陛下を繋いだ太田恭三郎氏 --- 三沢 清太郎

寄稿

天皇、皇后両陛下は10月31日、皇居・御所で、フィリピンのドゥテルテ大統領とパートナーのアバンセーニャさんと初めて会見しました。

そこでは、戦前にフィリピンに渡った日本人移民についても話題になり、天皇陛下が「マニラ麻の栽培に携わったと承知しています」と伝えると、大統領は自身が市長を務めた南部ダバオ市に触れ「数年前に日本人移民の人たちのための記念碑をつくりました」と話したそうです。

あのドゥテルテ大統領も緊張 天皇皇后両陛下、フィリピンのドゥテルテ大統領と会見

ドゥテルテ大統領はその後の晩餐会でも日比関係を1000年単位で考えようとユーモアを交えて親日ぶりをアピールされました。

ドゥテルテ大統領の親日的な感情は何処から来るのか、私の今夏のダバオ訪問記からも少しお感じいただくことができるかもしれません。

まず最初に向かったのは、ダバオ市街から車を内陸に少し走らせたところにあるミンタルという地区。

その地区にあるミンタル小学校を訪ねました。

この小学校敷地内にはドゥテルテ大統領が天皇陛下に話された、日本人移民の足跡に触れる場所があります。

それがこちら、とても立派な記念碑と、その麓に2つの小さな碑が建っています。

小さな碑の1つは訪問した時に丁度パネルを新調したところでした。そこには以下のような記載がありました。

太田恭三郎(1876-1917)
1876年2月に日本の兵庫県で生まれる。1917年の10月に日本の京都で亡くなる。
太田はルソン島のベンゲット道路工事に従事した日本人労働者をミンダナオ島ダバオに導き、ミンタルにアバカ麻(マニラ麻)栽培を行う太田興行株式会社を1907年に設立した。この会社はダバオの農業開発を推進する原動力となり、ダバオはこのアバカ麻栽培を中心として発展し、ミンダナオ島の経済発展にもつながった。ダバオの日本人人口は2万人にも達した。第二次世界大戦という不幸な歴史も存在したが、現在の日本とフィリピンの友好な関係を考えるとき、太田はその土台形成という点で大きな役割を果たした。
彼の業績を讃え、永続する日比の友好を祈念する。

(「ミンタル」の地名はバゴボ族首長の名で地名でもある「インタル」の「イン」を「民」として「民多留」(人々が多く住む)と太田興行株式会社が命名した)。

日本フィリピンボランティア協会

2017年8月12日

太田恭三郎氏がいなければフィリピン第二の都市と呼ばれるまでに発展した今のダバオは存在しなかったのかもしれません。
こんな立派な方がいらしたんですね。私は恥ずかしながらまったく知りませんでした。
何でも戦前・戦中の教科書にはちゃんと太田恭三郎氏の事を記載されていたそうです(詳しくはリンク先をご確認ください)。
私は日比関係を1000年単位で真剣に構築する事を考えるのであれば、日比友好の土台形成に多大なる貢献を果たした太田恭三郎氏の功績を日本人は改めて教科書でしっかり学ぶべきだと考えます。
皆様はどのようにお感じになりますでしょうか。
下の画像は記念碑の横にある太田興行株式会社の廃墟跡です。土台部分しか残っていませんが、ダバオ市は太田恭三郎氏の功績を後世に伝えるためにあえて土台部分を残しているそうです。
まだこの場所は観光地のように整備はされていません。何せ学校敷地内ですので、訪問しても見学できない可能性があります。いつか多くの日本人が来訪してもよいように最低限の整備がされることを望みます。
次に訪れたのはミンタル小学校裏にある墓地です。
この「憂い無しの碑」こそがドゥテルテ大統領がダバオ市長時代に日本人移民のために建立した記念碑です。
この他にもここには沢山の日本人の碑や墓が存在しました。
日本人のお墓に刻まれた名前から想像するにここの葬られているのは沖縄出身者が多いようです。
お墓の手入れはとても行き届いており、花を手向けられている碑もありました。
ほとんど日本人が訪れることのないこの場所で、フィリピン人が懇ろに日本人の御霊を弔ってくれていることに私は只々感動しました。

今回のダバオ訪問で私は日本とミンダナオ島の繋がりを知ることができましたが、それ以上にドゥテルテ大統領の慈愛とフィリピン人の優しさに触れることができました。

このブログを通じて1人でも多くの日本人が太田恭三郎氏のことを知り、フィリピン人の暖かい感情を知る機会となればこの上ない幸せです。

三沢 清太郎(みさわ せいたろう)東京都大田区議会議員(日本維新の会所属)
早稲田大学卒業後、IT企業、外資系生保での勤務を経て2015年から現職(1期目)