昨日、数年ぶりに岡山に行った。以前、岡山を訪れたのは仕事のためだったから、観光も一切出来なかった。今回は、後楽園で些か見頃を過ぎてしまった紅葉を眺め、岡山城の天守閣に登り、岡山の街並みを眺めた。
岡山城といえば、いうまでもなく、戦国時代の雄、宇喜多秀家の居城だ。豊臣秀吉の寵愛を受けた宇喜多秀家は若くして「五大老」の一人に推される。だが、関が原の合戦で徳川家康に敗れた後、徳川側の追手を逃れ、島津家を頼るが、島津家が徳川家と関係を修復後、宇喜田秀家は八丈島に流される。そこまでは漠然と知っていたのだが、昨日の岡山城の解説に拠れば、宇喜多は二度と岡山の居城に帰ることなく、何と80過ぎまで八丈島で孤独で貧しい生活を続けたという。この美しい後楽園を作ったのは、池田綱政だから、当然、宇喜多が一度でも後楽園を眺めたということはありえない。従って、望郷の念といっても、それは後楽園を再び見たいという想いではなかったはずだ。だが、宇喜多はどのような思いで八丈島での生活を続けたのだろう。そんなことがしきりと気になった。栄枯盛衰とはいうものの、戦国武将、政治家の運命というのものは、まことに難しいものだとしみじみと思う。
そういえば、石田三成の率いる西軍を裏切り、東軍の勝利に貢献した小早川秀秋がその功績によって与えられたのも、この岡山城だった。小早川は関が原の合戦の後、21歳の若さで早世している。「望郷の思い」に駆られながら80過ぎまで生き続けた宇喜多秀家の怨恨、数々の怨恨と軽蔑に耐えがたく早世していた「裏切り者」小早川秀秋の悔恨。人々の種々の想いが交錯する地であることを思うと世の無常を感じざるをえなかった。
さて、今回岡山を訪れたのは、歴史を学ぶためではなかった。
ウーマンラッシュアワーの村本さんが独演会をするとの話を聞いていたからだった。本当は東京の独演会に参加できればいいと考えていたのだが、自分自身の講演とぶつかってしまい参加が厳しくなってしまったのだ。参加したいと思っていたのに、日程が合わないとなれば、場所を変えるしかないと考えて岡山会場を選んだ。岡山会場として指定されていた場所は駅から遠く、本当にここでライブが開催されるのか心配になりながら、とぼとぼ歩いていると、「GREEN DAYS」というお店の前で看板の準備をしている方に出会った。会場を訪ねてみると、非常に親切に教えてくれ、ホッとして会場にむかった。岡山の人はいい人だった。会場はすぐ近所で、開場まで時間がありそうだったので、先ほどのお店まで引き返し、コロナ・ビールを飲んで、少々本を読む。ローティを読みたい気分だったので、このポスト・モダンなプラグマティストの議論を楽しむ。
いよいよ時間が迫ってきたので会場に向かうと長蛇の列が出来ていた。ドリンクを待って並んでいるお客さんだった。この時間で色々と考えてみたのだが、芸人さんのライブ、というか、歌手も含めてライブというものに参加するのは初めてのことだった。外に出かけることが嫌いなわけではないが、芸能人にも歌手にもほとんど興味がなかったから、こういうイベントには参加したことがなかった。高校生の頃には歌手のCDを買ったこともあるが、今や昔。殆どテレビを見ないので芸能人に関しては、皆さんに驚かれるくらい無知である。「誰もが知っている○○」と言われても、本当に知らないのだから、仕方ない。
長蛇の列に並びながら、「俺は何故ここにいるのだろう」と考えていると、まことに不思議な気分になってきた。僕が村本さんを知ったのは、AbemaPrimeという番組で一緒させていただいたからだ。それまでは、正直言って、ウーマンラッシュアワーという存在も、村本さんの存在も知らなかった。この番組の主たる話題は北朝鮮問題だったのだが、僕がこの人は面白い人だと思ったのは、「人権」の問題になったとき、「世界中の人間の人権が完全に侵されないような状況はありうると思うか?」という、素朴だが重要な質問をしてきたときだった。コメンテーターというものは「人権は守らなくてはいけませんよね?」と聞くのが一般的だろうが、この村本という人は、人権が守られない状況がありうるという、誰もが知っているが、いってはならないとされることをいおうとしていると思ったからである。
とはいえ、私が興味を持ったのは、村本さんの政治的な発言に対する素朴で率直な疑問だった。芸人のライブとはどういうものなのかも知らないし、本当に興味を持てるのか心配だった。みんなが笑っているときに、「何故、面白いんですか?」と尋ねるほど野暮な質問はないだろうが、そういう状況に陥りそうな気がして、正直、案外緊張した。自分が講演会で話すときよりも緊張した。
しかし、話が始まると行って正解だったと思えた。とにかく話が面白いのである。
話題は多岐にわたるが、村本さんが面白いのは、世間で当たり前のように思われていることを疑う点からスタートするからだ。「普通の人」とか、「選挙に行こう」とか「教育を充実させる為に資金を潤沢に」など、とにかく、ありとあらゆる常識とされる考え方を揺さぶるので、観客は意表を衝かれる。常識を疑うのだから村本さんが「変な奴」と思われるのは当然のことだろう。しかし、常識が常識となるまでには、何か理由があるはずなのだが、その理由を問うたり、考えたりすることもなしに、「普通の人」、「選挙に行こう」と取り合えずいっておくという態度は、実は無責任な態度ではないか。村本さんの挑発は筋が通っていることが多いのだ。
色々な問題があるだろうから、具体的な話の中身に言及することは避けるが、全編にわたって一貫しているのは、「それ本当なの?」、「あなた自身が考えたことなの?」という姿勢で、これはある意味では哲学の基本的な姿勢なのだ。古代ギリシアのソクラテスは、世の中で当然とされている考え方について、著名な論客たちに次々と質問を繰り返した。ソクラテスの議論が面白いのは、何が正しいということよりも、それは間違っているのではないかと、次々と議論を深めていくからだ。逆に言えば、これほど嫌な奴はいない。多くの人々が当然、当たり前としていることをいちいち疑ってかかり、合理的な説明を求めるからだ。
嫌われたソクラテスは殺された。果たして、村本さんはどうなるのだろう?
全てを笑いに変えてしまう村本さんのことだから、逆境でも自分自身の死までも笑いに変えてくれることを期待したい。
また独演会に参加してみたい。
【講演会のお知らせ】
演 題:『現在の日本における保守・リベラルとは何か』
講 師:岩田 温
◇講演概要
保守、そして、リベラルとは何か。先日の衆議院議員総選挙では、各政党の特色を表し、有権者である私たちにとっての判断基準の一つになったはずである。また報道番組でも頻繁に「保守」、「リベラル」という単語が使われていた。
しかし、どうも現代日本における「保守」「リベラル」の認識が曖昧なように思われてならない。例えば、立憲民主党に所属する政治家の面々を思い起こしてほしい。特に党代表を務める枝野幸男氏は自身を「リベラル保守」と自称している。そして、党のホームページでの代表挨拶では「右でも左でもなく前へ」とし、安倍政権が進める憲法9条の改正を「理念なき憲法改正」・「立憲主義を破壊する憲法改悪に反対」だと主張している。
私も「リベラルな保守主義」を主張しているが、この点では私と枝野氏の主張は全く相容れない。私は安倍政権が進める憲法九条の改正には賛成である。それは、憲法では戦力の保持・交戦権の否定を記しておきながら、我が国では自衛隊を保有していることに大いなる違和感を覚えるからだ。本来であるならば、九条第二項を削除すべきであるとすら考えている。
枝野氏も私も「リベラル保守」を自任しているが、憲法問題で正反対の主張をしていることになる。
ではなぜ、このような認識のずれが生じてしまっているのだろうか。また、真の『リベラル』『保守』とは一体何だろうか。今回は現代日本の政治状況を例に、皆様とともに考えたい。
日にち:平成29年12月16日(土)
開 場:13時30分
開 演:14時
終演予定:16時
会 場:NLCセントラルビル 3階 大会議室
(大阪市営地下鉄「西中島南方」駅 徒歩1分)
参加費:社会人 3,000円、学生 1,000円
主 催:一般社団法人 日本歴史探究会
お申し込みはこちらからお願いいたします。
編集部より:この記事は政治学者・岩田温氏のブログ「岩田温の備忘録」2017年11月27日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は岩田温の備忘録をご覧ください。