人間が変わる方法

先日Twitterを見ていたところ、「人間が変わる方法は3つしかない。1番目は時間配分を変える。2番目は住む場所を変える。3番目はつきあう人を変える。この3つの要素でしか人間は変わらない。最も無意味なのは『決意を新たにする』ことだ」という大前研一 BOT (@ohmaebot)さんのツイートがありました。

4年半程前、私は『人が変わる時』と題したブログを書いたことがあります。人生には幾つかの大きな転機があって、その転機で人が変わり得る可能性は非常に高く、例えば男性の場合は結婚をし、妻子とりわけ自分の血を分けた子供を養って行くという責任が課された時、その中で変わろうと決意をする人が、私の経験上では多いように思います。「発心」「決心」「相続心」という言葉がありますが、その変化に対する決意は相続心にまでなって続いて行くケースが結構あるわけです。

あるいは、素晴らしい人との出会いというものが人を変えて行く切っ掛けになり得ます。自分より優れた人間を見た時にその人を敬する心を持つのと同時に自分がその人間より劣っていることを恥ずる心を持つということ、此の『敬と恥』が人を変える一つの原動力になると思っています。之については敬があるから恥があるというふうに言えるもので、人間誰しもが持っている一つの良心と言っても良いかもしれません。

他方で先に挙げた3つの方法、「時間配分を変える」「住む場所を変える」「つきあう人を変える」で、自分を変えることに繋がるか否かは私には分かりません。但し、率直に申し上げて「そう簡単に自分を変えられるのであれば、誰も苦労しないのでは?」という印象を持ちます。

2番目の「住む場所を変える」に関して言いますと、例えば『草枕』の冒頭に次の有名な一節があります――山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。

之は漱石の一種の芸術論に繋がって行くのですが、どこに越しても同じだと彼は言っているわけです。私が思うに、人間が変わる上で上記3点に比してより本質となる要素は、時空を越え先哲の書に虚心坦懐に教えを乞うと共に、片一方で毎日の社会生活の中で事上磨錬し、その学びを実践して行くということです。先哲より学んだ事柄を日常生活で日々知行合一的に練って行く中で初めて、人間は段々と変わって行けるものでしかないと思います。

拙著『安岡正篤ノート』(致知出版社)の第3章でも述べた通り、人生の辛苦艱難、喜怒哀楽、利害得失、栄枯盛衰、あらゆるものを嘗め尽くすように体験することで知行合一の境地に持って行くことが出来るのです。我々は、そのようにして日々修練し自己修養に勉めて行かねばなりません。

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