娘が通っていた中高の校長が、「苦しい時の神頼みでもいいのです」と言ったという話を以前娘から聞きました。
それを聞いて「さすが、尊敬する校長様だな~」と私は思いました。
直に面識はなかったものの、保護者の前での話の内容から、かなりの人物だと密かに尊敬していました。
“苦しい時の神頼み”と聞くと、なんだかご都合主義で場当たり的なようにも聞こえます。
普段から信仰心のない人間が、困った時だけ神様や仏様にすがるのは不信心だと思う人もいるでしょう。
しかし、八方塞がりでどうしようもなくなった時、何もせずにじっと考え込んでいると、悩みが深くなって「物事を悪い方に悪い方に考える」という悪循環に陥ってしまいます。
子供が不治の病と告げられた時など、母親がお百度参りをする光景が昔の日本の物語でよく描かれていました。何もせずにじっとしていれば、悩みが深くなるばかりです。
裸足で同じ場所を行き来するだけでも精神的には楽になるはずです(心理学の「作業療法」と同じ原理です)。
そもそも、現代科学は私たちの世の中の一部しか解明していません。
神や仏を信じるか否かはともかくとして、科学では解明できない超自然現象はいくらでも身近に起こっているのです。
一縷の望みを託して“”神頼み”をすれば、今日の科学を前提にすれば「奇跡」という事態が起こる可能性もゼロとは言えません。
もっとも、困った人の心に付け込む輩はたくさんいるので、見ず知らずの人の都合のいい話に耳を傾けるのはとても危険です。対価を支払うことなどは、絶対に避けるべきです。
人間もちっぽけなものであれば、今日の人知もちっぽけなものです。
より大きな力を信じて身を委ねる時があってもいいのではないでしょうか?
自力が尽きたら「他力本願」。
案外なるようになるものです。
編集部より:このブログは弁護士、荘司雅彦氏のブログ「荘司雅彦の最終弁論」2017年12月6日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は荘司氏のブログをご覧ください。