老子は年寄り向き?

『老子』第六十七章に、「我に三宝あり、持して而して之を保つ。一に曰く慈、二に曰く倹、三に曰く敢えて天下の先とならず。慈なり、故に能く勇。倹なり、故に能く広し。敢えて天下の先とならず、故に能く器の長と成る」という有名な一節があります。

之は、「我には常に心に持して努めている三つの宝がある。一に慈、二に倹、三に敢えて天下の先にならぬことである。真の勇とは慈愛の心より生じ、真に広く通ずるは節倹なるが故である。敢えて天下の先とならずして退を好む、故に万民百官あらゆるものを統べるに足る」ということです。

此の「三宝」の内、三番目の「敢えて天下の先とならず…人に先んじようとしない事」が最も老子らしいと言えるでしょう。一番目の「慈…慈しみの心」及び二番目の「倹…倹しく暮らす事」は、古来からの一般的な道徳としてあることで、当たり前と言えば当たり前です。勿論、その道徳の中で何を大事にするかといった優先順位の付け方は老子の一つの考え方でしょうし、之が孔子になれば「仁・義・信」ということになるのだろうと思います。

例えば、『論語』の「憲問第十四の三十六」で孔子が「直きを以て怨みに報い、徳を以て徳に報ゆ」と述べている一方で、『老子』の第六十三章には「怨みに報ゆるに徳を以てす」という言葉があります。「直き…公正公平」か「徳…恩徳」か何を以って怨みに報いるのかが、孔子と老子とでは全く違っているわけです。夫々の思想の違いは、沢山あって大変興味深いものがあります。

ちなみに、徳性高き蒋介石が「怨みに報ゆるに徳を以てす」とし、戦後日本が安全に引き上げる上で非常に大きな働きをしてくれたことは、嘗てのブログ『人に対する姿勢』(13年2月25日)の中で、拙著『人物をつくる―真の経営者に求められるもの』(PHP研究所)より引用して御紹介した通りです。

上記一番老子らしいとした「敢えて天下の先とならず」につき、正義感に燃える若者や進取の気性に富む若い人にとっては、納得し難いのが普通ではないかと思います。之は、ある程度の年配になり自分が「楽天知命…天を楽しみ命を知る、故に憂えず」(『易経』)の境地になって初めて言えることではないでしょうか。

年を取り円熟すると老子が好きになるという人も結構いますが、年を取りある意味余り角がなくなってくると老子の思想の方が受け入れ易くなるのかもしれません。例えば、安岡正篤先生なども恐らく少し年を召されてからの方が、孔孟(…孔子と孟子)思想というよりも老荘(…老子と荘子)思想に対する興味関心をより強く抱き、惹かれるようなられたのではないかと思います。

「韓非の政治哲学の根本にあるのは“黄老”である」とは司馬遷のですが、此の黄老(…黄帝と老子)とは『老子』の主張した政治哲学を言います。それは、生一本(きいっぽん)のような世界でなく、正に「古いものほど風味がなれてよくなる」老酒(ラオチュー)の如き枯れた境地にある人が「あぁ、なるほど…」と思う味わい深きことです。私なども、これから段々と円熟味(?)を増してくるにつれ、「なるほどなぁ~」と老子の言に思うことが更に増えてくるような気がします。

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