小中では「国語」、高校では「現代国語」という科目があります。
実は、私はこの「国語」と「現代国語」が最大の苦手科目でした。田舎の公立中高それぞれ3年間(合計6年間)で、5段階評価の5をもらったのはたったの一度だけ。
たいていは4で、時々3を付けられたこともありました。
そんな私の著書「13歳からの法学部入門」が、多くの中高の国語の入試問題に採用されているのを当時の先生たちが知ったら、きっと腰を抜かして驚くことでしょう。
中学3年生の時、教科書に太宰治の「走れメロス」が掲載されており、先生がS君に「この物語の感想を言いなさい」と訊ねました。
しばし苦渋の表情を浮かべていたS君がしぼりだすような声で「メ、メロスは…えらい!!」と答えたので教室中大爆笑になりました。
しかし、よくよく考えてみると、この時のS君の感想は実に簡潔明瞭で決して間違ったものではありません。
まさか中学生に、「罪もない友達を自分の都合で命の危険にさらしたとんでも男」などという回答を先生が期待していた訳ではないでしょうから。
このように、現代国語というのは算数や数学と違って明確な回答が出せない主観的でわけのわからない科目だと諦めていたのが、中高時代の私でした。
当たるも八卦当たらぬも八卦の博打のようなものだと考えていました。
大学入試直前(ちょうど年末年始こと)になって「さすがにこれではまずいぞ」と思った私は、真剣に対策を考えることにしました。
「問題文の読み方は各人各様であれ、点数を付ける以上何らかの基準があるはずだ」「生まれも育ちも考え方も違っている受験生の回答を評価する、客観的基準がなければ公平な試験になるはずがない」…などとあれこれ考えた結果、極めてシンプルな結論が導き出されました。
現代国語の読解試験には、「問題文」と「問い」しか書かれていません。
つまり、この範囲内で導き出される回答が正解で、どんな名回答でもこの範囲を完全に逸脱すれば不正解となるということです。
例えば、論説文なら「結論」と「理由」があり、時として筆者に対する「反論」と「理由」が書かれています。
これらに横線を引いておいて、「問い」に答えれば(表現の稚拙はあっても)確実に正解が書けます。
物語文は、主人公やその関係者が「何らかのきっかけ」によって、問題文の最初と最後で心情が変化するものです。
「豚を殺すのは可哀想だ」と思っていた主人公が、「災害に遭った人たちが豚汁を食べて命を繋いでいる事実」を見て、「他の命を食べることで自分たちは生かされている」という(より成長した)心情に変化するような例が典型例でしょう。
問題文の最初の「心情」と「きっかけ」そして「変化した心情」に横線を引いておけば、自ずと正解にたどり着けるのです。
以上は大まかな例ですが、生まれも育ちも考え方も異なった受験生を公平に評価する方法は極めて限られています。
独特の考え方を持った受験生だけを入学させたいという学校を除けば。
時として物語の問題文の著者が「この回答は自分の意図と違う」と主張することがあります。
しかし、一部の「問題文」と「問い」から公平に評価を下そうとするのであれば、筆者の意図に反することもあるのです。
受験生は問題文以外の箇所を読んでいないという前提ですから。
このように考えれば、与えられた材料から、いかに「問い」に対する適切な回答を出すかが問われているのが現代国語の問題です。ビジネスパーソンの仕事処理能力と同じで、決して深遠な文学的哲学的ものではないのです。
そういう意味では、ビジネスパーソン諸氏にも現代国語の読解問題へのチャレンジをお勧めします。
中学入試レベルで十分です。
埋もれていた能力が大きく開花するかもしれませんよ。
編集部より:このブログは弁護士、荘司雅彦氏のブログ「荘司雅彦の最終弁論」2017年12月12日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は荘司氏のブログをご覧ください。