2ヶ月で辞めたベテラン職人が社長に請求書を送りつけたワケ

源田 裕久

人手不足が深刻化する前から、気力、体力、健康面での問題が無いなら、年齢に関係なく、元気に長く働いて欲しいと考えている経営者は、実は結構多い。

特に建設や製造業などの技術系では、長く培った経験が活かせることが多く、また、後輩社員に対する技術の伝道者としてのバリューも高いので、会社側も重宝するからだ。

厚生労働省は「生涯現役社会の実現」についての取り組みを進めており、高年齢者雇用安定法において企業に対して65歳までの雇用確保措置を義務付けている。また、雇用維持という意味合いとは違うが、40歳以上の方の起業支援にも力を入れている。

参照:厚生労働省【生涯現役起業支援助成金】

ベテランを雇うとありがちなフレーズ「前の会社では…」

造園業を営むB社では、受注増加に伴い、7月に新規の求人を行った。「若い人も歓迎ですが、技術を持った方なら60歳を超えていたって大歓迎」と話すD社長であったが、その言葉にマッチした62歳の経験者であるWからの応募があった。

朴訥とした感じで言葉数は少ないものの、誠実そうな人柄が認められて、採用されたWだったが、この後、勤務は長く続かなかった。

公園の除草や整備された植栽の剪定など、いわゆる公共事業も手掛けるB社では、作業手順や報告方法が細かく社内で規定されており、日々、D社長がチェックしていた。当然のことながら、Wも同じような手順での作業と報告が求められていたが、これが不満のようだった。

「結局、雑草を抜いて、伸びた枝葉を剪定すれば良いだけでしょう?」入社から1ケ月を経過したころ、Wは社長にそう言い返していた。そして、ベテランの中途採用で起こりがちなアノ言葉を聞いてしまうのである。

それは前職との比較。Wは、作業手順もさることながら、やはり日報作成が嫌だったようで、「前の会社ではこんな報告は作らなかった」と不満を漏らした。日報作成といっても、高齢者が苦手なパソコンでの入力などはなく、雛形に手書きで作業結果を記入するだけのものだったが、Wは「剪定〇本」「除草作業」など、ほぼ単語しか記入せず、作業概要が不明瞭であった。

「そうは言っても、うちはこの日報で管理して、クライアントに報告しているんだ」「あなただけを特別扱いはできないよ」D社長は何度かwを指導したが、その都度、wは「はぁ」と返事ともため息ともつかない言葉を発して小さく頷くだけで、その後も改善されなかった。

退職願の手紙に同封された12万円の請求書!

入社してから2ケ月ほどが経過したある晩、WからD社長のもとに1本の電話が入った。彼は「もう会社を辞める」と一方的に伝えてきた。基本的には日々作業なので継続性はあまり無いのだが、作業の進捗状況についての説明や申し送り事項の報告などは行われなかった。

それから更に2週間が経過した後、WからD社長宛に退職願いが届いた。その封筒の中には、あの作業日報への書き込みを嫌がった同一人物とは思えないほど、便箋2枚にわたって手書きされた、長々とした手紙が同封されていた。

内容を要約すれば、日報作成について入社時に聞かされていなかったこと、D社長の行う朝礼での作業手順確認の打ち合わせが自分に対する嫌がらせに思えたこと、また、作業で使用する「合羽」を自費で購入したことへの不満(?)などが縷々、綴られていた。

補足すると、確かに外作業であるので雨天時は合羽が必要となるが、これは社員各自が用意していた。尚、作業着について会社負担すべきという労基法上からの要請は特段ないが、B社では合羽以外、作業着などの備品類は会社が貸与・支給している。

そんな中でD社長が目を見開いたのが、便箋と同封されていた請求書だった。どういう計算根拠なのかわからなかったが、精神的な苦痛を受けたとして「慰謝料120,000円を支払え」の記載があった。その下段にはあの「合羽」の代金も付け加えられていた。

「朝礼では、手順をきちんと確認してくださいねとしか言ってないけどなぁ」、「車での移動は気をつけて」とも言ったけど、それが駄目だったのか。「でも、本人が高圧的だったと受け止めたなら、相応の金銭を支払うべきなのかなぁ」D社長は思い悩んだ。

どちらの言い分に理があるのか、公正な判断を仰ぐには

相談を受け、D社長の話だけでは不正確なこともあるので、専務や事務員さんにも状況を確認したところ、確かに4~5回目くらいに指導した時、少々きつい言い方があったようだった。しかし、全体的には他の社員への指示や指導と同様の内容であり、とりたててwにだけ厳しい態度で臨んではいないようだった。(これは会社側の言い分だけではあるが、それを前提に話を進めるしかない)

「金額的には支払っても良いのだけど、それで幕引きできるのか怖いんです」とD社長。

実は先々代の社長の時、ある社員との間で残業代を巡るトラブルが発生。それが発端となって公共事業の発注元である市役所に街宣車がやってきた・・・という事件が起こり、金銭支払い後、更に要求がエスカレートするのではないかという不安を持っていた。

合羽の代金請求はする一方で、肝心の作業着の返却が行われていないこと、小口現金として預けていた20,000円の清算が行われていないことなどが判明したため、これらの未処理を解決するためにも、Wに話し合いしたいとの提案を通知した。

しかし、Wはこれを拒否。返す刀で・・・ということでも無いだろうが、またしても手書きで部分的に意味が不明瞭な内容も含んだ返事が送られてきた。

これで完全にスイッチが入ってしまったD社長。あのトラウマが想起され、頭を抱え込んでしまった。その彼が公的な判断を仰ぎたいとして選択したのが「労働審判」であった。一般的には労働者側から残業代の未払い請求などで申し立てることが多く、企業側からの申し立ては多くないと思われるが、労使紛争の解決手段の一つとしては有効だ。(注:弊社にはADR(裁判外紛争解決手続)業務を行える特定社会保険労務士が在籍しているが、労働審判の代理人にはなれないため、D社長が本人申請を行う際にアドバイスのみ行った)

【労働審判とは(下記サイトをご参照】

裁判所のサイト

労働政策研究・研修機構のこちらのページはわかりやすいです。

労働審判とは、個別労働関係紛争について、労働審判官(裁判官)1人と労働関係に関する専門的知識や経験を持つ労働審判員2人で組織される労働審判委員会が、裁判所において3回以内の期日で迅速に審理を行うものであり、労使どちらからでも申し立てができる。どちらの言い分に理があるのか、公正な判断を仰ぐには良い制度だろう。

そして、労働審判当日。D社長に請われて私が同行したところ、裁判官からの身元確認と相手側の同席許可のもとに、後部席にて審判の一部始終を傍聴させていただいた。結局、初回の審判でD社長とWは互いに債権や債務が無いことを確認して和解。地方裁判所の廊下では「Wさん、元気でね」「ありがとうございます」と、にこやかな挨拶が交わされたのだった。

ベテランを採用しても社長の遠慮は禁物

ある職種について長い経験がある人は、転職先での新たなルールに対応できない場合は結構ある。特に技術系の職人さんなどには「成果がすべて」「細かいことを言うな」などと社内の手順や仕組みに縛られたくないという気質を持つ方もそれなりに多くいる。

しかし、個人事業主ならいざ知らず、やはり組織に属している以上、それぞれの会社での決まり事を遵守するのは勤め人としての最低限のマナーである。人が集って会社という組織を構成するのであり、そこには当然に規律が存在している。

とかく“腕があるから”と経営者が何かとベテランに対して遠慮することが多々あるが、それはNGだ。ためらわずに積極的にコミュニケーションを取り、時にやさしく、時には少々厳しく接してでも、会社のルールを守るよう諭す努力は必要だろう。

それが結果として、ベテランの培ってきた“職人としての矜持”を活かす仕組みに昇華されれば、その技術を手本として次世代が育ち、技術や経験が社内に蓄積され、組織としての活性化にも大いに貢献してくれるはずである。

源田 裕久(げんだ ひろひさ)
社会保険労務士/産業心理カウンセラー アゴラ出版道場3期生

足利商工会議所にて労働保険事務組合の担当者として労務関連業務全般に従事。延べ500社以上の中小企業の経営相談に対応してきた。2012年に社会保険労務士試験に合格・開業。2016年に法人化して、これまで地域内外の中小企業約60社に対し、働きやすい職場環境づくりや労務対策、賢く利用すべき助成金活用のアドバイスなどを行っている。公式サイト「社会保険労務士法人パートナーズメニュー」