ヨーロッパの留学制度「エラスムスの父」マヌエル・マリン死去

「エラスムスの父」、故マヌエル・マリン氏(EFEより引用)

12月4日、スペインの政治家だったマヌエル・マリンが亡くなった。享年68歳。彼はスペインの政界において目立つ程の存在ではなかった。しかし、スペインが民主化になってから欧州連合(EU)の前身である欧州共同体(EC)にスペインが1986年に加盟するまでの交渉を指揮したのがマヌエル・マリンであった。

それ以上に彼の貢献度が多大であったのは、ヨーロッパの学生が国境の隔たりなく自由に学べる交流の場としたエラスムス(Erasumus)計画を実現させるために活躍した第一人者であったことである。その功績が称えられて、彼はEUで「エラスムスの父」と呼ばれている。

日本の文部科学省でもエラスムス計画のことが取り上げられている。

マリンが1977年に27歳で国会議員になってから、当時の社会労働党政権下で、33歳だった彼は、ECへの加盟交渉担当次官としてECと接触していた。マリンはフランスのナンシー大学でヨーロッパ法の博士号を習得しており、性格も長期的視野から対話を重視する人柄で、ECとの交渉に彼は適任者であった。

そして、スペインがECへの加盟を果たした後も、マリンは13年間ECそして、その後EUでの仕事に就くのであった。当初、マリンはEC委員会の副委員長になり、彼の担当の一つが教育関係であった。そこでECで懸案になっていたエラスムス計画の実現化に取り組むのであった。

この実現の為の交渉は容易ではなかったという。特に、フランスと英国がこの計画に反対していたからだ。両国が反対した理由は、教育と文化は自国が独自に発展させるものであって、他国からの影響は受け入れたくないという姿勢からであった。しかも、留学先の大学で取得した単位が、そのあと母校でもその単位が認定されるというシステムにも難色を示していた。

マリンはこの両国への説得に努めたが賛同を得ることは出来なかった。結局、当時のEC委員会は仕方なくエラスムス計画の実現を一時的に棚上げすることに決めたのであった。しかし、その1年後にEC加盟国の一部の国で政権が代わったことや、留学制度の確立の必要性などがEC内でより理解されるようになり、フランスと英国は反対し続けたが、議会での承認を得ることが出来たのであった。それから半年も経過しない内に、エラスムスが実施されるようになったのであった。

それから30年が経過した現在、学生や教育関係者が奨学金を支給されてこれまで330万人の学生や教育関係者がEU圏内でエラスムスを利用した。筆者の長女も、この制度を使って1年間ではあるが、ドイツの大学で修学できた。勿論、そこで取得した単位はスペインで籍を置いていた大学で取得単位として認定された。

スペインでは年間4万人の学生がEU圏の大学に留学し、同数の学生を受け入れているという。

マリンが得意とするいつも長期的な視野に立って物事を見るという性格から、彼はエラスムス計画が実現されるのは将来のEU発展には必要であると判断して、加盟国の担当者を個々に説得して行った。それは、彼がまた対話を重視する性格であるということも説得に役立っていた。

EUの関係者の間では、誰もがマリンをして「エラスムスの父」と呼んでいる。その功績が称えられて、世界で最古の大学の一つとされているスペインのサラマンカ大学で彼に名誉博士号が今年授与された。その時、彼は病気で出席できなかったが、彼の二人の娘がその授与式に父親に代わって参加した。

その折に、同時にそれが授与されたEUの現委員長ジャン・クロード・ユンケルは彼の死を悼んで、「私の友人マヌエル・マリンが亡くなって非常に悲しい。彼はスペイン出身の元委員会役員であり、エラスムスの父だ。ヨーロッパに捧げることを使命と感じていた人物として対象になっていた。彼と一緒にサラマンカ大学の名誉博士号を授かったということは、私にとって名誉なことだ。ご家族に心より哀悼の意を捧げる」とツイートした。

ヨーロッパでの仕事を終えたマリンは2004年から2008年までスペイン下院の議長を務めた。彼が議長を務めている間に、議事室のモダン化を進め、そこにネット網も設置したりした。しかし、彼の潔癖で時間厳守の性格が、当時の野党第一党だった現首相で当時党首のマリアノ・ラホイの国民党から執拗以上に、また時に議会の規定に背いてまでサパテロ政権を批判しようとする姿勢と衝突。それが議会の運営にも支障を来たすようになっていた。

また議員が演壇に立っての演説の時間にも余裕を与えず制限時間厳守を敢行させようとした。それに対して野党側からはマリン議長への批判も強まった。マリンは当時の4年間を回想して、ゴミ箱に捨てても良いような非生産的な4年間であった、と述べていた。

議長としての4年間で議員生活にも終止符を打ちたいと決めたようであった。議員生活から離れて大学に戻って教鞭の生活を始め、ある財団の理事長も務めていた。

マヌエル・マリンは能力ある多くの政治家が目指す首相や大臣ポストに就くことには関心が薄かったようである。それもあってか、12年間続いたフェリペ・ゴンサレス政権下で10年副首相を務めたアルフォンソ・ゲッラは「彼に当然与えられるべき評価がスペインではされていなかった」と述べて残念がった。確かに、マリンはECその後EU での評価の方が高い。

「マヌエル・マリンは政治上で、どの業務においても、いつも遠くを展望していた。政治において、マリンのように用意周到な能力を備えた人物の到来が必要である」そして、「彼は造詣が深く、資質を持っている人物だった。どのようにすれば改善できるかと、常にそれを探し求めていた」と回顧したのはラホイ首相が全幅の信頼を寄せているソラヤ・サエス・サンタマリア副首相である。

国会議事堂の一室に彼の棺が安置されて告別式が行われたが、国王フェリペ6世もそれに参列した。