家から離れ、寄宿舎で暮らす学生たちは、自分で生活を律する習慣を身につけなければならない。朝、うるさく起こしてくれる親もいない。勉強をしなくても、先生から呼び出されることはない。結果はすべて自分で引き受けなくてはならない。言うは易く行うは難し。なかなか自分のコントロールができない若者たちは、自分を監督するAIが欲しいと思う。多数の学生が、「AIに何を望むのか?」の期末課題に、こんな願いを書いてきた。
例えば、こんなふうに。
「宿舎で宿題をしていると、つい携帯が気になって触り始める。するとたちまち数時間がたってしまう。ダイエットを決意しても、おいしいものを見ると、腹の皮が破けるほど夢中になって食べてしまう。過ちを犯すのは、情緒的で、性懲りがないからだ」
「もともと自己管理意識が薄弱なので、私が怠けそうなときに、『おい、しっかりしないといけないぞ』と注意喚起してくれるようなAIが欲しい。そうすれば、あらかじめ注意を集中することができるし、自分の怠け心に警戒信号を発することもできる」
「いろん作業が重なってしまい、どういう順番に手を付けていいか迷ったときに、何を先に、どのぐらいの時間をかけてやればよいのか。何を後回しにして、じっくりやればいいのか。アドバイスをもらえれば大いに助かる。AIであれば、ビッグデータの中から、私の性格や作業の速度、他人の経験などを合わせて分析し、正しい答えを導き出してくれるに違いない。そうすれば、私は、願ってもない完璧なスケジュール表を手にすることができる」
こう読んでくると、自己管理ができず、なんとも頼りない存在に思えてしまうのだが、なかなかしたたかな面がある。AIのコントロールに支配されると、逆に依頼心ばかりが強まり、自分を失ってしまうように思えるのだが、学生たちは、「そんなことはない」と断言する。少し、誘惑があったり、感情的に不安定で、理性の働きが弱まることはあるが、AIの注意喚起は、私たちの理性を再び目覚めさせてくれる。いわば、AIという道具を使って、理性覚醒の訓練をしているのであって、より実り多い生活へと結びついていくのだ、こんな自信に満ちた態度なのだ。
またある者は、もっと奇抜な発想をする。
「カギやはさみ、靴下の置いた場所を忘れ、出かける前に大慌てしてしまうことがしばしばあるので、もしAIが場所を教えてくれれば、どんなに助かるだろうか。不在の時、ものが無くなっても教えてくれるし、目の不自由な人にも有効な技術だと思う。ものだけではない。何らかの事故で記憶を失ってしまった人にも、昔の記憶を取り戻すために、AIが持っているデータは役に立つ。過去に目にした光景や細かい生活習慣まで知っているAIから、少しずつに記憶を引き出せばよい」
自分の健康管理をゆだねることについて、概して抵抗は少ない。大学生活は不規則になりがちなので、むしろ、常時、栄養や睡眠のバランスをチェックして、運動不足であれば、ジョギングを促すように喚起する「アドバイザー」の役割を期待している。若者は新たな技術に対して寛容で、楽観的なのだ。
もちろん、物事には二面性のあることも、学生たちは十分に認識している。生活がすべて機械化されることには、だれもが抵抗を示す。
「人生には山あり谷あり、難関もあり、挫折もあり、すべて自らが経験して初めて意味を持つ。もし、完璧なタイムスケジュール表で人生を送れば、人類の生存の意味がなくなってしまう。問題はいかにAIを利用するか、いかに操り、仲良くやってくかである。人間は血が通い、感情があるから、機械的な理性を持ちえず、外部の環境から影響を受け、誘惑を受け、自分のコントロールが難しくなる。この点、AIは全く外部の影響を受けない。だから、この二つが補い合えば、きっとよくなる」
どこまでも楽観的なのだ。(続)
編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2018年1月3日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。