作詞:谷村新司、作曲:堀内孝雄のヒット曲「遠くで汽笛を聞きながら」の歌詞の中に、「何もいいことがなかった街」という個所がある。その歌詞を初めて聴いた時、正直言って「なんと寂しい表現だ」と感じたことを思い出す。少なくとも、前国連事務総長、元韓国外相の潘基文氏にとって音楽の都ウィーンは「多くいいことがあった街」であることは間違いないだろう。
なぜ今、潘基文氏の名前が突然飛び出したのかというと、同氏の名前を付けた「グローバル市民のための潘基文センター」(NGO)が3日、ウィーンで設立され、その記者会見がオーストリア連邦首相府で開かれたからだ。
国連事務総長(任期2007~2016年)を退職後、同氏の名前は一時、韓国大統領選の有力候補としてメディアを賑わせたが、その後は同氏の言動は不通となった。その同氏がウィ―ンに姿を現したのだ。久しぶりに見る潘基文氏はやはり年を取った感はあるが、いつものように笑顔を振りまいていた。
潘氏にとってオーストリア、その首都ウィーンは第2の故郷だ。これは潘氏自身の言葉だ。本人はウィ―ンを訪問する度、「私の第2の故郷はオーストリアです」と、外交辞令もあるだろうが言ってきた。実際、潘氏にとってウィーンは忘れることができない街だ。ウィーン市は第3の国連都市でもあるから、国連事務総長時代は機会がある度にウィーンに顔を見せていた。
ウィーンと潘基文氏の最初の繋がりは、同氏の在ウィーン韓国大使時代に始まる。駐オーストリア大使時代、深夜の2時、3時まで執務室で働くのが日常茶飯事だった。そのため、大使専属運転手はいつ呼び出されるか分からないため、家に帰ることも出来なかった、という話が伝わっているほど、職務没頭型外交官だった。ソウルに帰った後、2004年から06年まで外相(外交通商部長官)を務め、その後は国連事務総長として出世街道を邁進していった。ウィ―ンは外交官だった同氏の出世の道を開いてくれた運のいい街、だったのだ。
ウィーンには国際原子力機関(IAEA)の本部や包括的核実験禁止条約(CTBT)の事務局があるので、北朝鮮の核問題を抱えている韓国外交官にとって、それらの国連機関とのコンタクトは重要だ。その後の外交財産ともなる。韓国の外交官の間で「出世したければ、一度はウィーンに駐在しなければならない」と囁かれるほどだという。
潘基文氏は3日、連邦首相府で開かれた創設発足記者会見で、「国連事務総長を退職した後、国際社会に貢献できる道がないかと考えてきた。そこに同センターの話が出てきた」と述べた。「グルーバル市民のための潘基文センター」の設立目的はさまざまな国際問題の解決に貢献し、特に青年や女性の社会的役割を支援していくことだ。同センターはオーストリア、韓国、クウェ―トの3国政府が支援国となり、同氏とハインツ・フィッシャー前オーストリア大統領が共同議長、そのもとに10人の理事がいる。
ちなみに、潘基文氏は国連事務総長時代、朝鮮半島の調停に意欲を見せたことがあったが、平壌当局から冷たく拒否されたことがある。記者会見では、最近の北朝鮮と韓国間の対話の動きについて聞かれると、「小さなステップだが、評価できる動きだ」と述べるだけに留めた。同氏は訪朝の夢をまだ捨てていないのかもしれない。
国連事務総長を退職して自由の身となったこともあってか、オーストリア滞在中の同氏の発言はかなりストレートだ。オーストリア放送の夜のニュース番組の中でのインタビューで、トランプ米大統領に対し、「米国ファーストは間違ったビジョンだ。気候変動に対応する国際枠組み『パリ協定』の米国の離脱は政治的に短絡で無責任な決定だ」と珍しく厳しく批判している。
「グローバル市民のための潘基文センター」は同氏の晩年のライフワークだ。ちなみに、潘基文氏は国連事務総長時代、人事で韓国人優先の縁故主義で批判され、「過去最低の国連事務総長」と言われ、また、反日発言を繰り返してきた人物としても有名だ。それだけに、ウィーンの同センターが反日発言の欧州発信地とならないことを祈るだけだ。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2018年1月7日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。