大阪大学が昨年2月に実施した入試ミスで、本来合格していた30人が不合格になっていたことが明るみに出ました。
報道によると、過去2回の指摘を大学側が跳ねつけ、3回目でようやく認めたという極めて悪質なものです。
30人もの受験生の人生を変えてしまった責任はというと、総長が役員報酬の10%を3か月自主返納し、他の理事も一部報酬を自主返納するというものです。
総長の役員報酬がいくらかはわかりませんが、仮に月100万円だとしたら合計30万円。人生を狂わされた受験生1人に対して、たった1万円の謝罪で終わりということです。
大阪大学だけでなく、日本の社会には「ウチに甘くてソトに厳しい」という社会規範が根付いています。
大昔、かなりの人数の司法修習生が、司法研修所の卒業試験(「二回試験」と呼ばれています)でカンニングをしたという事件がありました。
自分の六法に書式等の形式的な記載方法を書き込んで試験中に閲覧したのが発覚したとのことでした(ザッと検索しても出てこなかったので私の記憶です)。
カンニングが発覚した全員が、2か月遅れの6月終了という「大甘」の処分で済まされたそうです。司法試験の最中にカンニングが発覚すれば、理由の如何を問わず即刻受験資格を失います。
試験委員に試験問題を教えてもらった女性受験生には、5年間の受験資格を失うという厳しい行政処分が課せられました(「期待可能性」という観点から、個人的には厳しすぎる処分だと思います)。
この処分の違いは、司法試験受験生というのは、ソトの人間であるのに対し、司法修習生というのがウチの人間だからだと私は考えています。大阪大学の受験ミスも、受験生はソトの人間で、総長や理事長はウチの人間ということで天地のような差が生まれたのでしょう。
会社も同じです。入社する前の就活生はソトの人間ですが、内定後入社してしまえばウチの人間です。
内定を出すまでは厳しい目でチェックされますが、内定を出して入社してしまうと滅多なことでは処分や解雇はされません。
厳しい解雇規制の存在もありますが、同僚を切り捨てるのは忍びないという心理作用も大きいと思います。
サークルやクラブでも、新規に加入するときには厳格なチェックがあっても、一度加入してウチの人間になってしまうと滅多なことでは除名されません。
公的な組織である弁護士会が、依頼者のお金を横領した言語道断の弁護士を除名処分にしないのも同じ原理が働いているのでしょう。
このように、「ウチに甘くてソトに厳しい」という社会規範は、血縁関係を重んじる中国や韓国にも(もしかしたら日本よりはるかに強く)存在するかもしれません。
今年度(昨年4月から今年3月まで)に二十歳に達する新成人のうち、東京23区内では約13%の新成人が日本国籍を持たない外国人だそうです。
新宿区の外国人新成人割合が最高で、45.9%に達するそうです(ジャパンタイムズ 1月11日号より)。
外国人コミュニティーの平均年齢は日本人よりはるかに若いのです。
あと10年もすれば、東京23区の若年層における外国人の割合が3~5割くらいになるかもしれません。
多様性が生まれることは国や社会の発展には概ねプラスです。しかし、多様性を維持するためには寛容性が不可欠です。「ウチに甘くてソトに厳しい」社会構造は、寛容性と正面から矛盾するのではないかと私は危惧しています。
ウチとソトというダブルスタンダードが強固なままだと、日本社会は排他的な小集団の集合体になってしまう恐れがあります。
集団内だけで通用するローカルルールはあってしかるべきですが、みんなが従うべき骨太のグローバルルールの存在が不可欠でしょう。
各地のゴルフコースには様々なローカルルールがあるそうです。しかし、「3回までは手で投げても構わない」というローカルルールを作ったのではゴルフでなくなってしまいます。
不公平感を払拭できるレベルであり、かつ透明性のあるグローバルルールの存在が、寛容性を維持するためには必須だと考えています。
編集部より:このブログは弁護士、荘司雅彦氏のブログ「荘司雅彦の最終弁論」2018年1月15日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は荘司氏のブログをご覧ください。